よこはままち 横浜町 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 東北地方 | ||||
都道府県 | 青森県 | ||||
郡 | 上北郡 | ||||
市町村コード | 02406-6 | ||||
法人番号 | 4000020024066 | ||||
面積 |
126.38km2 | ||||
総人口 |
3,888人 [編集] (推計人口、2024年12月1日) | ||||
人口密度 | 30.8人/km2 | ||||
隣接自治体 | むつ市、上北郡野辺地町、六ヶ所村、下北郡東通村 | ||||
町の木 | つきけやき | ||||
町の花 | 菜の花 | ||||
他のシンボル |
町の鳥: 浜千鳥 町の魚: 横浜ナマコ | ||||
横浜町役場 | |||||
町長 | 石橋勝大 | ||||
所在地 |
〒039-4145 青森県上北郡横浜町字寺下35 北緯41度04分59秒 東経141度14分52秒 / 北緯41.08314度 東経141.24781度座標: 北緯41度04分59秒 東経141度14分52秒 / 北緯41.08314度 東経141.24781度 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
横浜町(よこはままち)は、青森県下北半島の中間部、陸奥湾に面する町。上北郡に属する。
下北半島の中間部に位置し、西を陸奥湾に東を吹越烏帽子、金津山等の山岳地帯に囲まれる。
長く伸びる浜があり、奥方向には山々が遮っているため細長い地形から自然についた地名と思われる[2]。
「よこはま」自体はアイヌ語起源ではないが、字にはアイヌ語起源とされる地名が存在する。町内の鶏沢(ニワトリザワ)は古くはニヤチヤまたはニワチャと呼ばれ、この発音からアイヌ語起源と考えられている[2]。
町内から縄文土器をはじめとする遺物が発掘されていることから、先史の頃よりこの地に人が住んでいたことが分かる。
現在の三八上北地方は、古くは糠部郡(ぬかのぶ)と呼ばれる地域の一部であった。文治5年(1189年)、南部三郎光行、糠部五郡に封ぜられる[3]。ただし、この頃、糠部宇曽利は安藤氏に支配されていたようだ。[要出典]
康正2年(1456年)、蠣崎蔵人の乱に巻き込まれる。『東北太平記』にある下北図には城砦として「横平城、横浜カゲユ」の名がみえる[4]。
弘治元年(1555年)、南部氏の庶家である七戸右近朝慶の子慶則、横浜館主となり、横浜氏を名乗る。系図によると「横浜左衛門尉、慶則、横浜某養子」と記事がある[5]。
文禄2年(1593年)、文禄の役。名護屋陣中の南部信直の書状に「野辺地よこ浜にてえぞ船あまた作り候……」とあり、横浜で造船が行われていたことがうかがえる[6]。
江戸時代より天然桧、また煎りナマコを中心とした海産物の上方貿易により繁栄を迎える。越前三国の吉左衛門という商人が横浜に寄り住み、「色濃」という紺色木綿をヒノキ材と交換していた[7]。 幕末の盛岡藩士、漆戸茂樹の『北奥路程記』は横浜に言及し、曰く「横浜九ヶ村という。総戸数八十九軒、出入り口に柵有り。桧柾目の胴木、幅七寸長さ四尺のもの四枚を大阪木綿一反と交換」とある。地元のものはこの規定サイズのヒノキ板を「寸法」と呼び、大阪木綿を「寸模(すんぽ)」と呼んでいる。昭和末期でも地元の人は木綿布を買い求める時に寸模と呼んでいたという[6]。
横浜は北郡四宿場(伝法寺駅、藤島駅、有戸駅、横浜駅)の一つであり、宿屋、給水所、高札場が設けられていた。
寛永11年(1634年)糠部郡分割。寛文4年(1664年)、南部藩断絶し盛岡藩と八戸藩に分割。天和2年(1682年)、南部領内の管轄改正。横浜八ヶ村は北郡野辺地通り横浜村○○村となる[注釈 1]。
17世紀末ごろに書かれた古文書が横浜に伝わっており『横浜家文書』と呼ばれている。これによると、かつて泊川左近、またの名を横浜左近なる者が泊川に舘を持っていた[8]。蠣崎氏と婚姻関係を結んでいたという[9]。この横浜左近が、南部七戸系の横浜氏であったのか、それとも慶則が横浜に入る前の地元の土豪の系統であったのかは分からないが、横浜は互いに対立している蠣崎氏と南部氏に挟まれ微妙な立地であったことがうかがえる。 また、『横浜家文書』は横浜が衰退した様子について述べている。この頃、横浜八ヶ村のヒノキは伐り尽くして幼木ばかりとなった。ついに宝暦13年(1763年)、伐採は藩の役人に厳しく規制されることとなった。こうしてヒノキの出材量は激減し、他国の商人は材木取引から手を引くことになる[10]。
明治2年、戊辰戦争に伴う盛岡藩の減封→県設置布告→会津藩転封を経て、北郡は斗南藩領の一部となる。明治4年、廃藩置県の詔書により横浜村は斗南県に入る。同年、斗南県が弘前県に吸収され、さらに青森県に改称。
明治24年、東北本線が開業し、蝦夷へ渡る旅客は東北本線で青森へ出られるようになり、野辺地を含む田名部街道沿いの町の重要性はぐっと低下した[8]。
古くより尻屋崎は海の難所であることが問題視されていた。南部藩では延宝元年(1673年)に下北半島を横断する運河を開鑿する計画が持ち上がり、3ルートについて調査が行われた。そのうちの一つが横浜-六ヶ所村泊間を運河でつなぐというものであった。3ルートとも計画のみで終わっている[11]。
明治26年、幸田露伴、恐山参詣の折横浜を通り、『枕頭山水』に紀行を記す。
主に男性は北海道方面の漁撈に出稼ぎし、農業は女性中心の半農半漁の生活であったため、昭和に入っても自家用作物を確保するのが精一杯で農業の技術進歩がみられなかった。昭和の大凶作の後の1932年(昭和7年)に農業経済更生指定村に指定され、村長自ら指揮を執り農業の効率改善に努めた。このときにナタネを導入したのが今の菜の花栽培の始まりである[12]。
隣村の六ヶ所村とともに野辺地町とのつながりが強いが、平成の大合併でむつ市を中心としたむつ下北地域合併協議会に参加。合併後の新議会定数を巡る対立等にて大間町脱退に伴い協議会が廃止された。
横浜町桧木八幡神社には八幡太郎義家の伝説がある。1053年(天喜年間)、安倍貞任らの夷征伐の帰り、源氏の軍団が乗った船が大嵐に遭った。そこで源義家が弓で波を射つつ祈ると時化がおさまった。義家が射た波は後に軽石となって浜に上がったと言われ、その辺りの浜を「源氏ヶ浦」と呼び、その浜に軽石を神体とする八幡神社を勧進したという。ゆえにこの神社は軽石八幡神社とも称されている [8]。 祭神誉田別尊。承暦元年(1077)勧進。元禄四年(1691)の由来書によると、狄の蜂起で戦乱となり村人が離散して祭祀途切れ宮社衰亡していたが、玄俗院という山伏が復興したという[13]。 また国の重要無形民俗文化財に指定されている「能舞」が伝わっており、18面の能面が同神社に保存されている。また県無形民俗文化財指定の「獅子舞」「神楽」などが、八幡神社例大祭で披露される。
平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、7.09%減の4,535人であり、増減率は県下40市町村中21位。
横浜町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 横浜町の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 横浜町
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
横浜町(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |