きき きりん 樹木 希林 | |||||||||||||||||||
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オデッサ国際映画祭にて(2015年) | |||||||||||||||||||
本名 |
(旧姓: | ||||||||||||||||||
別名義 | 悠木 千帆[1] | ||||||||||||||||||
生年月日 | 1943年1月15日 | ||||||||||||||||||
没年月日 | 2018年9月15日(75歳没) | ||||||||||||||||||
出生地 |
東京府東京市神田区 (現・東京都千代田区)[1][4] | ||||||||||||||||||
死没地 | 東京都渋谷区[1] | ||||||||||||||||||
血液型 | A型 | ||||||||||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||||||||||
ジャンル | 映画・テレビドラマ | ||||||||||||||||||
活動期間 | 1961年 - 2018年 | ||||||||||||||||||
活動内容 | 1961年 - 文学座に入団 | ||||||||||||||||||
配偶者 |
岸田森[4](1964年 - 1968年) 内田裕也(1973年 - 2018年)[4] | ||||||||||||||||||
著名な家族 |
内田也哉子(長女)[4] 本木雅弘(娘婿) 内田伽羅(孫娘) 三浦聡子(姪) | ||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||
テレビドラマ 『大江戸捜査網』第1シリーズ 『時間ですよ』 『寺内貫太郎一家』 『ムー』 『ムー一族』 『影の軍団シリーズ』 『岡っ引どぶシリーズ』 『夢千代日記』 『はね駒』 『はみだし刑事情熱系』 映画 『夢千代日記』 『命』 『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』[4] 『歩いても 歩いても』 『わが母の記』 『あん』 『万引き家族』 『日日是好日』 広告 『ピップエレキバン』(ピップフジモト) 『フジカラー』(富士フイルム) | |||||||||||||||||||
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樹木 希林(きき きりん、1943年〈昭和18年〉1月15日[1][4] - 2018年〈平成30年〉9月15日[5])は、日本の女優。戸籍名:内田 啓子(うちだ けいこ)[1][2]、旧姓:中谷(なかたに)[1][3]。旧芸名は悠木 千帆[1](ゆうき ちほ、初代)。
東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)出身[1][6]。 2番目の夫は内田裕也。間に娘・内田也哉子がいる。夫とは長く別居を続けていた[7]。
父は薩摩琵琶奏者・錦心流の中谷襄水(辰治)(1917年 - 1989年)[1][4]。妹も薩摩琵琶奏者の荒井姿水(昌子)。その息子も薩摩琵琶奏者の荒井靖水。
父は若い頃は警察官で希林が幼稚園の頃は会社勤めをしており、趣味で薩摩琵琶奏者をしていた[8]。警察官時代は神田界隈を管轄としていて[6]、神田神保町でカフェ「東宝」を経営していた母と知り合い結婚[4][9]。父は結婚後にカフェの主人になり[6][8]、一種のヒモであった[8]。母は父より7歳上で、二人の先夫との間にはそれぞれ一人ずつ子があった[8]。母は横浜市中区野毛に料理店「叶家」を開いており、樹木にとって母方の実家にあたる[10][11]。
千代田女学園に入学後は演劇部に在籍、食いっぱぐれのないようにと薬剤師を目指していたが、数学ができず大学受験にあまり気乗りしていなかった。受験直前に気晴らしとしてスキーをしに、友人のいる夕張へと向かう父について行ったが、地元の子たちと滑っているうちに尻餅をつき足を骨折したため、大学受験を断念せざるをえなくなった[12][13]。学校の卒業式にも出席できず、新たな一歩を踏み出そうとしている同級生と家でじっとしている自分を比べて、絶望感や疎外感を抱えていたという。
そんなとき、戦後初めて三大劇団が研究生を募集している旨の記事を新聞で見つけ[8]、どこか毎日通えるような学校はないかと考えていた希林は願書を取り寄せることにする。文学座、劇団俳優座、劇団民藝の順番で試験があり、一番早かった文学座の試験のみを受けた。一次試験は約千人いたが合格し、1961年に文学座一期生として付属演劇研究所に入る[1][6][8]。
長岡輝子からは、「あんたはね、耳がいいから入ったのよ」「自分のセリフだけ覚えて言うんじゃなくて、人のセリフを聞いてる」というように、「耳がいい」ことが合格の理由であると説かれた。文学座付属演劇研究所での同期に、小川眞由美・橋爪功・寺田農・北村総一朗・岸田森・草野大悟がいる。
「悠木千帆」名義で女優活動をスタートする[1][4]。この芸名は「芸能界では“勇気”が必要」として父親が考案し(最初は、勇気凜々という言葉から『悠木凜子』という名を提案された)、千帆は版画家の前川千帆から採られた[14]。文学座研究所では「あんた、勘のいい子ねッ、来てちょうだい」と杉村春子の付け人を務め[6][8]、1962年の小津安二郎監督『秋刀魚の味』の撮影に同行[8][15]。1963年、文学座の分裂で、杉村から「あんた残ってちょうだい」と頼まれ[8]、1965年に文学座の正座員となるが[8]、1966年に文学座を退団[1][8]。1964年に森繁久彌主演のテレビドラマ『七人の孫』にレギュラー出演し、一躍人気を獲得した[4][6][16][注 1]。この頃、叔父の知人・長沢節が主宰するセツ・モードセミナーにも通い、当時の若者のファッションで街を闊歩していた[4]。
樹木は森繁と杉村について、「それまで新劇にいてまじめな芝居しかやってこなかったんで、森繁さんが本を無視して、どんどんその場でつくっていく面白さに最初の頃は洗礼を受けました。森繁さんと杉村さんの違いは、森繁さんは自分を表現していこうとする人、杉村さんは書かれた台詞から多彩なニュアンスを含ませて言う。結果、名作が残ったんですよね。この二つを同時代に同時に見てきたわけですから、両方のいいとこを取り入れていけば、まだ食っていけるという気はしていました」と語っている[17][8](ある作品で遅筆だった向田邦子に痺れをきらし「筋だけ書いてよ、後はこっちでなんとかする」と自分勝手な発言をして喧嘩に発展した事もあった[18][4])。しかしその後、2008年の是枝裕和監督『歩いても 歩いても』でキネマ旬報ベスト・テン助演女優賞を受賞した際の『キネマ旬報』のインタビューでは、「(ここまでのキャリアを振り返ると)やっぱり、映画は脚本が第一、監督が二番目、三番目が映像で、役者はその後ですよ。優れた脚本と監督に出会ったら、何も変なことをする必要はない。遅いけど、脚本や監督に何も文句を言わなかった杉村さんの凄さが今になって分かりました」と話した[19][4]。
『七人の孫』で出会った演出家・久世光彦と組んだ1970年のテレビドラマ『時間ですよ』(TBS)で不動の人気を得る[8]。1974年にTBSで放送されたドラマ『寺内貫太郎一家』では、小林亜星が演じた主役の貫太郎の実母を演じた[4]。実年齢は小林より10歳以上若く、頭髪を脱色し「老けメイク」を施し、当時30代前半のまだまだ若手との不自然さを隠すため、劇中は指ぬき手袋を外さなかった。本作品の劇中において、寺内家の母屋でドタバタ騒ぎが始まると、自分の住む離れに駆け込み、仏壇の横に貼られた沢田研二のポスターを眺めて「ジュリーィィィ!!」と腰を振りながら悶えるシーンが話題となる。
1967年11月、個人事務所「有限会社希林館」を設立[20][21]。また1970年代には、安田道代と2人で芸能事務所を興しており、岸部一徳を所属させた[22]。
1977年4月1日、『日本教育テレビ』(NETテレビ)から『全国朝日放送』(テレビ朝日)への局名・会社名称変更を記念して放送された、特別番組『テレビ朝日誕生記念番組・わが家の友だち10チャンネル・徹子のナマナマ10時間半完全生中継』の中のオークションコーナー「にんげん縁日」で、「売る物がない」との理由で、特に思い入れが無かったという自身の芸名「悠木千帆」を競売にかけた[23][24]。このことは、この放送前にスポーツ紙で報道されたこともあって、つかこうへいから「200万円で買うから、そんなバカなことはやりなさんな」とたしなめられて持ち掛けられたこともあったが、これを断った[25][26]。最初1円から始まったこのオークションは結局、2万200円で通りすがりの東京・青山のブティックを経営する服飾デザイナーの女性がこの名前を落札し[25]、その落札金はチャリティーとして寄付した[26]。落札した旧名はこの女性から無償で2004年に女優の山田和葉に譲渡された(悠木千帆 (2代目) も参照)。
芸名の売却後、芸名を本名の内田啓子にすることも考えていたが、内田裕也が「(内田を芸名にすると)俺の個性が君の芸にからむようでまずい」と反対し、改めてTBSプロデューサーの久世光彦らが同席して新芸名を考える会議を行ったが、久世から「そんなイージーな役者は死ね」と叱られたほどだった[27][28]。その久世からは「芸名が変わると誰だかわからなくなるから、買い戻してくれないか」とも、「『母啓子』(ははけいこ)という芸名はどうだ。年をとったら、母に濁点付けて『母゛(ババ)啓子』だ」とも言われたことがあった[14]。仕方なく、辞書を引いて文字を拾いながら決めることにし、この4文字から「樹や木が集まり希(まれ)な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」ということを連想し、自ら樹木希林に決めた[27][24]。しかし、この由来は改名後に受け取ったある人物からの手紙に書かれていたことを気に入って採用したものだと、BS日テレ『おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!』において自ら語っている。本人は「『危機感』にもつながるような発音で、この語調にずっこけたような感じもあるから私らしい」と話し[28]、音が重なるのが好きだったということで「『ちゃちゃちゃりん』とかでも良かったが、これでは漢字が当てられなかった」とも話している[14]。
テレビドラマ『ムー』(1977年)では「お化けのロック」を、『ムー一族』(1978年)では「林檎殺人事件」を共演者の郷ひろみとデュエットし挿入歌としてリリース、ヒットした[1]。
1979年1月、『ムー一族』の打ち上げパーティーが行われ、樹木は最後のスピーチを務めたが、その中で番組プロデューサー久世光彦と「近松屋のともこ」役の女優のぐちともこが不倫関係にあり、この時既にのぐちが妊娠8か月であったことを暴露したことから、スキャンダルに発展し騒動となる。関係者の間では「公然の秘密」とされていたが、この場で久世は全てを認め、後に正式離婚し、のぐちと再婚している。久世はこの騒動の影響もありTBSを退社、制作会社「カノックス」を設立する。久世とは結局、1996年放送のドラマ『坊ちゃんちゃん』まで絶縁状態となったが、樹木には周囲と険悪な関係になりながらも「久世さんがああした状況の中でなし崩しにショボショボしていくのが耐えられなかった」、「2人の気持ちを軽くしてやろうと思った」との真意があった。また、こうした場での暴露を非難する声に対しても「ああいう見せかけの優しさが久世さんをダメにした」と反論している[29]。
1981年、吉永小百合主演のテレビドラマ『夢千代日記』(NHK)に芸者・菊奴役で出演。作品はシリーズ化されレギュラー出演した。吉永とも意気投合、これが縁となり1980年代は吉永の主演映画に常連として出演した[1]。
1964年に俳優の岸田森と結婚するが[1]、1968年に離婚[1][30]。1973年10月に内田裕也と再婚するが[7]、1年半で別居し[31]、その後別居生活を続けていた[7][32]。1981年、内田が無断で離婚届を区役所に提出するも、樹木は離婚を認めず、離婚無効の訴訟を起こし勝訴した[33]。
その後は1年に1回連絡を取り合う程度の関係となったが[33]、2005年1月、乳がんが判明して摘出手術を受けたことを機に連絡は1か月に1回となり、以降毎年1月は一緒にハワイで過ごすようになったという[34]。内田との間に1人娘の内田也哉子がいる[30]。
1979年から出演したピップエレキバンの広告での横矢勲ピップフジモト会長(当時)[35]との掛け合いは人気を集めた[36]。
また、1978年からフジカラーのCMに出演していたが[37][38]、1980年に放送された『フジカラープリント お名前篇』では、お見合い写真を現像しにきた客(綾小路さゆり[39])役の樹木と写真屋の店員役の岸本加世子との「美しい人はより美しく、そうでない方は…」「そうでない場合は?」「それなりに映ります」というやり取りが流行語となった[37][38]。フジカラーのCMには40年にわたって出演し続け[38]、2002年には消費者の好感度が最も高い女性CMタレント1位に輝いた。
2003年1月に網膜剥離で左目を失明したことを2004年1月に発売した長嶋茂雄との対談本『人生の知恵袋』で明かす[30][40]。
2007年には、「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2007」に2人の孫と共に出演し、「イマジン」の日本語訳歌詞などを朗読した。
2013年3月8日の第36回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。そのスピーチにおいて、全身がんであることを告白したが[41]、2014年1月16日に1年半ぶりのがん治療が終了したことを会見で公表している[42]。
2018年7月29日・8月5日放送の『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ)「転がる魂 内田裕也」のナレーションを担当した[43]。8月13日、大腿骨を骨折したため同月15日に緊急手術を行った。翌16日に予定していた生放送への出演を見送り、電話で出演して状況を報告した[44]。
2018年9月15日2時45分、東京都渋谷区の自宅で家族に看取られて死去[45]。75歳没。戒名は「希鏡啓心大姉」[46]。9月30日、東京都港区南麻布の光林寺にて葬儀が執り行われた[47]。
同年11月9日から29日までFUJIFILM SQUAREで写真展[48]、11月16日から12月2日までレスリー・キー撮影特別展示『愛・樹木希林』が開催された[49]。2019年6月、初めて自ら企画も手がけた映画『エリカ38』[50]が公開された[51]。
なお、樹木の死から約半年後の2019年3月17日午前5時33分、夫の内田も死去した[52]。
年 | 賞 | 対象作品 |
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1986年 | 日本女性放送者懇談会賞[83] | |
2005年 | 第37回芸術選奨文部大臣賞 | 『はね駒』 |
2005年 | 第26回ヨコハマ映画祭助演女優賞 | 『半落ち』 |
2005年 | 第28回日本アカデミー賞優秀助演女優賞 | 『半落ち』 |
2007年 | 第31回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞 | 『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』 |
2007年 | 第20回日刊スポーツ映画大賞助演女優賞 | 『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』 |
2008年 | 紫綬褒章[16] | |
2009年 | 第30回ナント三大陸映画祭最優秀女優賞 | 『歩いても 歩いても』 |
2009年 | 第33回報知映画賞最優秀助演女優賞 | 『歩いても 歩いても』 |
2009年 | 第51回ブルーリボン賞助演女優賞 | 『歩いても 歩いても』 |
2009年 | 第82回キネマ旬報ベスト・テン助演女優賞 | 『歩いても 歩いても』 |
2009年 | 第32回日本アカデミー賞優秀助演女優賞 | 『歩いても 歩いても』 |
2011年 | 第34回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞 | 『悪人』 |
2012年 | 第4回TAMA映画賞最優秀女優賞 | 『わが母の記』 |
2012年 | 第25回日刊スポーツ映画大賞助演女優賞 | 『わが母の記』『ツナグ』[84] |
2013年 | 第36回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞 | 『わが母の記』[16] |
2014年 | 旭日小綬章[16] | |
2015年 | 第28回東京国際映画祭 ARIGATO賞[85] | |
2015年 | 山路ふみ子映画賞女優賞 | 『あん』[86] |
2015年 | 第7回TAMA映画賞 最優秀女優 | 『あん』『駆込み女と駆出し男』『海街diary』[87] |
2015年 | 第40回報知映画賞 主演女優賞 | 『あん』[88] |
2016年 | 第37回ヨコハマ映画祭 特別大賞 | 『あん』[89] |
2016年 | 第39回日本アカデミー賞 優秀主演女優賞 | 『あん』[90] |
2016年 | 第9回アジア太平洋スクリーンアワード 女優賞 | 『あん』[91] |
2016年 | 第37回ヨコハマ映画祭 特別大賞[89] | |
2016年 | 第42回放送文化基金賞・演技賞 | 『いとの森の家』[92] |
2016年 | 第10回アジア・フィルム・アワード・特別功労賞[93] | |
2017年 | 第26回日本映画批評家大賞・ダイヤモンド大賞(淀川長治賞)[94] | |
2017年 | 第66回神奈川文化賞[95] | |
2018年 | 第12回ジャパン・カッツ カット・アバブ賞 | 『モリのいる場所』[96][97] |
2018年 | なら国際映画祭特別功労賞[98] | |
2018年 | 第43回報知映画賞 助演女優賞[99] | 『モリのいる場所』『万引き家族』『日日是好日』 |
2018年 | 第31回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞 助演女優賞[100] | 『万引き家族』『モリのいる場所』『日日是好日』 |
2018年 | 第73回毎日映画コンクール 女優助演賞[101] | 『万引き家族』 |
2018年 | 第42回日本アカデミー賞 最優秀助演女優賞[102] | 『万引き家族』 |
2018年 | 第42回日本アカデミー賞 優秀助演女優賞 | 『日日是好日』 |
2018年 | 第35回ATP賞テレビグランプリ 特別賞[103] |