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人物情報 | |
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生誕 |
1882年12月24日![]() |
死没 |
1945年1月30日(62歳没)![]() |
国籍 |
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出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
時代 | 大正・昭和 |
研究分野 |
言語学 国語学 |
研究機関 | 東京帝国大学 |
指導教員 | 上田萬年 |
主な指導学生 |
有坂秀世 岩淵悦太郎 大野晋 亀井孝 金田一春彦 服部四郎など |
学位 | 文学博士 |
主な業績 |
文献重視の日本語研究 音韻史研究の大枠を完成 |
主要な作品 | #著書 |
学会 | 国語学会 |
橋本 進吉(はしもと しんきち、1882年12月24日 - 1945年1月30日)は、日本の言語学者・国語学者。
1882年、福井県敦賀市に医師の長男として生まれる。京都府第一中学校(現洛北高校)、第三高等学校(現・京都大学)を経て、1906年に東京帝国大学文科大学言語学科を卒業(銀時計受領)[1]。卒業論文は「係り結びの起源」。
文部省国語調査委員会補助委員、東京帝国大学文科大学国語学教室助手を経て、1927年、同大学国語国文学第一講座助教授に就任。1934年、東京帝国大学より文学博士の学位を取得。1929年には教授に昇任した。1942年、日本文学報国会国文学部会長。1944年、国語学会会長。
1945年、病没。墓所は郷里の敦賀市の来迎寺にある[1]。
没後、岩波書店(全12巻)で「橋本進吉著作集」が、岩波文庫で「古代国語の音韻に就いて」が刊行された。
橋本の学風は徹底的な文献学に基づいている[2]。この「文献主義」とも形容される姿勢は、『校本万葉集』の編纂などに表れており、門下生に有力な研究者がいたこともあって[注 1]、後世における日本語学の主流となった[2]。橋本の学風は実証的であると同時に組織的であり、研究するに当たっては、その研究史を徹底的に調べ、資料典籍の考証、伝記の調査に努力を惜しまなかった[3]。
日本語における音韻の歴史的研究をしたほか、上代特殊仮名遣を体系づけた[4]。上代特殊仮名遣は、橋本が独立に発見し、その後石塚龍麿の『仮字遣奥山路』の記述の価値を見いだし、顕彰したとされる[5]。これについては、水谷静夫が論じているほか[6]、21世紀に入っての研究で、本居宣長や石塚龍麿の研究に従っていることが確認されている[7][8]。1942年に天津教の不敬罪裁判で、いわゆる竹内文書について狩野亨吉とともに検察側証人として出廷した際には、上代特殊仮名遣の観点から竹内文書の神代文字を否定した。
橋本は「文節」を重んじ、文法体系は「橋本文法」と称された。現代日本語文法での四大文法の一つとして重要視され、学校文法への影響も大きく[9]、学界だけではなく教育界にも大きな影響を与えた[10]。