橘 | |
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竣工時の橘の艦型図。矢印部分は松型駆逐艦との相違点。 | |
基本情報 | |
建造所 | 横須賀海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
級名 | 橘型駆逐艦 |
艦歴 | |
計画 | 1944年度(昭和19年度)計画 |
起工 | 1944年7月8日 |
進水 | 1944年10月14日 |
竣工 | 1945年1月20日 |
最期 | 1945年7月14日、函館湾内において戦没 |
除籍 | 1945年8月10日 |
要目(計画値) | |
基準排水量 | 1,262 トン |
公試排水量 | 1,530 トン |
全長 | 100.00 m |
最大幅 | 9.35 m |
吃水 | 3.30 m |
主缶 | ロ号艦本式ボイラー×2基 |
主機 | 艦本式タービン×2基 |
出力 | 19,000 馬力 |
推進器 | スクリュープロペラ×2軸 |
速力 | 27.8 ノット |
燃料 | 重油 370 t |
航続距離 | 3,500 海里/18ノット |
乗員 | 211 - 276 名[1] |
兵装 |
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レーダー | 22号電探×1基 |
ソナー |
四式水中聴音機×1基 三式探信儀一型×1基 |
橘(たちばな)は日本海軍の駆逐艦。仮称5511号艦、橘型(改松型)駆逐艦の1番艦として横須賀海軍工廠で建造された。
艦名は植物のタチバナによる。食用柑橘類の総称でもある。艦名としては桜型駆逐艦2番艦「橘」に続いて2代目。
就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将)に編入。瀬戸内海に回航され、1945年(昭和20年)3月15日付で「椿」「桜」「楢」「欅」「柳」とともに第五十三駆逐隊を編成する[2]。第五十三駆逐艦隊は戦艦「大和」らの艦隊と広島・呉から沖縄に出動する予定だった。ところが航続距離が短いことなどから大和隊から急きょ外された[3]。
4月7日以降は第三十一戦隊(鶴岡信道少将)の指揮下に入り[4]、回天目標艦として大津島方面で行動した[5]。
5月7日、「柳」とともに大湊警備府部隊に編入され[6]、5月13日に呉を出港して大湊へ回航された[7]。関門海峡の掃海を待って日本海に移動し[8]、5月21日に大湊に到着した[9]。津軽海峡で対潜警戒に従事する傍ら、6月11日に「柳」とともに大湊を出港して、5月11日に占守島で爆撃を受け損傷した海防艦「八丈」の護衛を兼ねて舞鶴に向かう[10]。その後も津軽海峡の警戒に従事し、函館湾を根拠とした。
7月14日、折から日本本土への最終攻撃作戦を行っていた第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)は、朝から艦載機を飛ばして北海道および東北地方の市街地や港湾施設、飛行場、艦船を攻撃していた。「橘」の居た函館も例外ではなく、5時頃から市街地及び就航中の連絡船に対して攻撃が開始された[11]。「橘」は5時40分に対空戦闘を開始し、この砲撃を見た敵機が突撃してきたため、錨を切断して緊急出港した。
出港した「橘」は面舵と取舵を繰り返しながら航行し、誘爆を避けるため甲板上の水雷が投棄された[12]。「橘」は函館湾内の船舶や湾外を航行していた2隻の連絡船を護衛するため、敢えて湾内にとどまって戦った[13]。6時40分、右舷に至近弾を受け、機関が停止し航行不能となる。6時50分、爆弾が艦の後部に命中して艦体が右に大傾斜し、甲板上にいた生存者たちは海上に放り出された。このとき、僚艦「柳」は「橘」からの「ワレ、ゴウ沈ス。0653」という電文を受けている[3]。
「橘」は葛登支岬灯台の南東約3海里の地点で右に倒れて沈没した[14]。生存者は約2時間漂流の後、漁船に救助され茂辺地(現在の北斗市茂辺地)付近に上陸。生存者のうち27名は、臨時列車で函館病院へ搬送され、その他の負傷者47名は茂辺地の病院で応急手当を受け、元気な生存者と共に地元の学校・民家に分宿した[15]。乗員のうち156名が戦死した。
8月10日、「橘」は除籍された。
函館護国神社境内に「橘」戦死者の慰霊碑がある。背面には、「昭和20年7月14日午前5時、米海軍機動部隊より約100機の敵艦載機が函館港停泊中の青函連絡船及び船舶を目標に来襲した。これら船舶の護衛任務にあった駆逐艦「橘 1260トン」は単艦よく敵艦載機の襲撃を一手に引き受け、湾内湾外に勇戦奮闘し、在泊船舶の損害を最小限に食い止め其の任務を遂行した。敵機6機撃墜、1機撃破して午前6時53分葛登支灯台の90度2分3000mに沈んだ。乗組員280名中、戦死者140名、戦傷者31名」と彫られている。
※『艦長たちの軍艦史』369頁による。