歓喜天 | |
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![]() 双身歓喜天 (高野山真別所円通寺本『図像抄』より) | |
名 | 歓喜天 |
梵名 | ナンディケーシュヴァラ (Nandikeśvara) |
別名 |
毘那夜迦(びなやか / びなやきゃ、梵:Vināyaka, ヴィナーヤカ) |
経典 |
『使咒法経』 『大使咒法經』 『大聖歓喜双身毘那夜迦法』 『大聖歓喜双身大自在天毘那夜迦王帰依念誦供養法』 等 |
関連項目 | 大自在天、大黒天、韋駄天、大日如来、十一面観音、軍荼利明王、三宝荒神、ガネーシャ |
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歓喜天(かんぎてん、梵:Nandikeśvara[1]、ナンディケーシュヴァラ、歓喜自在天とも)は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教のガネーシャに相当する尊格で、ガネーシャと同様に象の頭を持つ。
梵語ではヴィーナヤカ(Vināyaka、音写:毘那夜迦、びなやか / びなやきゃ)、またはガナパティ(Gaṇapati、音写:誐那鉢底 / 誐那缽底、がなばち / がなはってい / がなぱてい)と呼ばれるほか、大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)、大聖歓喜双身天王、聖天(しょうでん[2]、しょうてん[3] )等とも称される。
象頭人身の単身像と立像で抱擁している象頭人身の双身像の2つの姿の形像が多いが、多くは厨子などに安置され、秘仏として扱われており一般に公開されることは少ない。稀に人頭人身の形像も見られる。
ヒンドゥー教の神・ガネーシャ(Gaṇeśa、群集の長)と同じ起源を持つ。
ガネーシャの起源はヴィナーヤカ群(梵:Vināyaka)と呼ばれる、『黒ヤジュル・ヴェーダ』所属の家庭儀礼綱要書『マーナヴァ・グリヒヤスートラ』(Mānava-Gṛhyasūtra、前7世紀~前3世紀頃)や叙事詩『マハーバーラタ』に登場する四つの鬼神にあると考えられている[4][5][6][7]。この四つの鬼神はやがて一つの神格へと融合され、プラーナ文献においてはシヴァ神に仕える魔物の群衆(gaṇa、ガナ)の長(Gaṇapati、ガナパティ)となり、そして最終的にシヴァの息子とされるようになった[6][7]。もともとはヴィグネーシュヴァラ(Vighneśvara、障害の主)という名前の通り障害を司る神であったが、やがて障害を除いて財福をもたらす神として広く信仰された。
仏教に取り入れられたヴィナーヤカ(毘那夜迦と音写)も当初は「障礙をもたらす悪神」として認識された。『大毘盧遮那成仏神変加持経』(大日経)入漫茶羅具縁真言品第二余に「彼(か)れ護心を住するによって あらゆる障を為す者 毘那夜迦等の 悪形の諸(もろもろ)の羅刹 一切皆退き散る 真言を念ずる力の故に(由彼護心住 所有為障者 毘那夜迦等 悪形諸羅刹 一切皆退散 念真言力故)」とあり[8][9]、一行筆受の『大日経疏』は毘那夜迦を「即ち是れ一切の障を為す者、此の障は皆妄想心より生ず」と解説している[6][10]。ネパールやチベットの仏教美術ではヴィナーヤカは障礙の化身として(ヴィグナラージャ、Vighnarāja、「障礙の王」の意)マハーカーラ(大黒天)やアチャラ(不動明王)のような忿怒尊に踏まれている姿に描かれることもある。
時間が経つにつれて、仏教のヴィナーヤカはヒンドゥー教のガネーシャと同様に最終的に悪神から障害を取り除く仏教に帰依した護法善神へと転じた。護法神であるヴィナーヤカ(毘那夜迦天、歓喜天)は、ヒマラヤ山脈のカイラス山(鶏羅山)で9千8百の諸眷属を率いて三千世界と仏法僧の三宝を守護するとされる。悪神が十一面観音菩薩によって善神に改宗し、仏教を守護し財運と福運をもたらす天部の神とされ、日本各地の寺院で祀られている。
一般的な抱擁している象頭人身の双身像の場合、頭部に冠を付けている方が十一面観音で、その十一面観音に抱擁されながらも足を踏まれている方が毘那夜迦王とされる。
「聖天」の「聖」の字は、歓喜天の本身(大日如来もしくは観自在菩薩)を表すという。
歓喜天(毘那夜迦)を説く経典には、以下のものがある。
東密・台密ともに、大日如来が方便のため、権現として毘那夜迦天になったと解釈されている。欲望を抑えきれない類の衆生に対して、まずは願望を成就させてあげることで心を静めさせて仏法へ心を向かわせる。訳経僧不空の弟子に当たる唐の含光法師は、その著述で「聖天の利生方便は自余の仏神を超過し、二世の悉地を得ること、この尊に如くはなし。」と讃嘆している[11]。
含光記『毘那夜迦誐那鉢底瑜伽悉地品秘要』(以下『瑜伽悉地品秘要』)では、器に非ざる者には妄りに伝授してはならず、器に撰ばれざる人物は障難が有り、智者は迦誐那鉢底の法を修めて速やかに悉地(siddhi、成就)を得ると説かれている。
善無畏訳『大聖歓喜双身大自在天毘那夜迦王帰依念誦供養法』は双身歓喜天像の由来を以下のように説く。
摩醯首羅大自在天王の妻・烏摩女は3,000の子をもうけた。左から生まれた1,500の子は毘那夜迦王を長子とし、あらゆる悪事を働いた。いっぽう扇那夜迦持善天(せんなやかじぜんてん、梵:Senanāyaka、セーナナーヤカ[注 2])を長とする右の1,500の子は善行を修めた。観音菩薩の化身であった扇那夜迦王は、毘那夜迦王の悪行を鎮めるために最初はその兄弟となり、そして次に女天として毘那夜迦王と夫婦となって、「相抱同体」の形を示現せしめたという[13][14]。
真言僧の覚禅(1143~?)が撰述した『覚禅抄』には以下の話が述べられている。
摩羅醯羅(まらけいら)州という国には王がいた。大根と牛肉ばかり食していたため、やがて国中に牛がいなくなった。すると王は次に死人の肉を食べ始め、それも少なくなると生身の人間を食べるようになった。国の人々は王を討伐しようとしたところ、王は「大鬼王毘那夜迦」に変じて、眷属共々飛び去り、姿を消した。その後、王の呪いで国中に疫病が流行ったので、人々は十一面観音に助けを求めた。十一面観音は毘那夜迦女の姿を取って王の前に現れ、悪を捨てるよう説得した。心変わりした王は大いに歓喜して、疫病を終息させた。こうして国に平和が戻り、人々が安穏に暮らすようになったという[15][16]。
天台僧・光宗(1276~1350)撰『渓嵐拾葉集』には以下の説話がある。
南天竺国に意蘇賀大臣(鼻長大臣とも)という大臣がいて、王妃と不倫の関係をもった。それを知り激怒した王は大臣を殺そうと図り、象の肉を混ぜた毒酒を大臣に飲ませた。王妃の助言を受けた大臣は鶏羅山(カイラス山)へ逃げ込み、そこで油を浴び羅蔔根(大根)を食した。すると毒は消えて大臣は命を取り留めることができた。怒りに満ちた大臣は「大障礙神」となろうと誓願し、大荒神毘那夜迦に身を変じて、五億八千那由他の眷属を率いて王宮に乱入した。大臣のもとに赴いた王妃は「悪の心を翻して大慈悲の心を生みなさい」と大臣に勧告したところ、大臣はそれに従い慈悲の心を生もうと誓った。王妃は大臣に身を任せると、大臣は歓喜の心を生じて王妃を抱いたという[17][18][19]。
頼瑜撰『秘鈔問答』における「聖天縁起」は以下のとおりである。
「毘那夜迦」という山(象頭山、障礙山とも)に大勢の毘那夜迦が住んでいた。その長である歓喜王は、当時まだ仏法に帰依していなかった大自在天に衆生の精気を奪い、あらゆるさまたげをなすよう命じられた。その時、観自在菩薩が毘那夜迦婦女(障母女)の姿をとり、歓喜王のもとに赴いた。一目ぼれした歓喜王はこの美女を抱きたいと欲したが、障母女は私の教えに従って仏教を守護するように求めた。王はこの美女の要求を承諾し、そして美女を抱いて交わると歓喜を得た。これにより、歓喜王は仏法に信奉し、併せて仏教の護法神となったという[20][21]。
象頭人身の形像が多いが、人頭人身の形像もある。『大聖歡喜雙身毘那夜迦天形像品儀軌』等に基づいて、男天・女天2体の立像が向き合って抱擁している歓喜仏的なものが通例である。
双身歓喜天像(男天・女天2体の立像が向き合って抱擁している)の場合、形像の特徴としては、頭部が相手の右肩に乗せられている。もしくは、頭部が2体とも同じ方向を向いている姿が多い。
ヒンドゥー教のガネーシャ神と同様に単体多臂像(腕が4本または6本)もあるが、造像例は少ない。
象頭である理由は、『瑜伽悉地品秘要』によれば、「佛菩薩の権現にて、作障者を正見に誘入せんが爲(ため)に象頭を現す。即(すなわ)ち象は瞋恚強力(しんにごうりき)ありと雖(いえど)も、能(よ)く養育者及び調御者に随(したが)ふ。此の尊然(しか)り。障身を現せども、能(よ)く 歸依(きえ)の人(ひと)乃至(ないし)歸佛(きぶつ)者に随うと云えり。」と記されている。
日本仏教には珍しく、後期密教の無上瑜伽やタントラ教の歓喜仏を連想させるような男天・女天が抱擁し合う表現を含むため、双身歓喜天像は秘仏とされて一般には公開されないのが普通である。
歓喜天の彫像は、円筒形の厨子に安置された小像が多く、浴油供によって供養することから金属製の像が多い。現存最古とされるのは金剛寺(高幡不動)の歓喜天木像だが、かろうじて木像であることがうかがえる程度の状態である。鎌倉市宝戒寺の歓喜天像は高さ150センチを超す木像で、制作も優れ、日本における歓喜天像の代表作といえ、国の重要文化財に指定されているが、秘仏とされ公開されていない。
両界曼荼羅に描かれているものは、すべて単身の二臂像である。金剛界曼荼羅では、外院二十天 北方に位置し、胎蔵界曼荼羅には、大自在天の化身の伊舎那天の眷属として、最外院 北方東部にある。[要出典]
『瑜伽悉地品秘要』では、誐那缽底(Gaṇapati)の法を修めたい者は、先ず毘盧遮那仏(大日如来)・観世音菩薩・軍荼利菩薩(軍荼利明王)の三尊を崇敬・礼拝すべきと説かれている。これに併せて、毘盧遮那五字真言(ア・ビ・ラ・ウン・ケン)、観世音十一面毘倶胝諸仏所説真言、軍荼利菩薩除障難真言が記されている。
チベット仏教(蔵密)では軍荼利明王が歓喜天を調伏した姿で表現されることがあり、軍荼利明王は歓喜天を支配するとされる。
油で歓喜天を沐浴させる。銅器に清浄な油を入れて適温(人肌)に暖めて、その油を柄杓などで汲んで、歓喜天の像に油を注ぐ。108回を単位として、1日に7回行う。
浴油供に対する供養法。初夜(午後6時~10時)の供養法。天部の諸尊は、午後には食を摂らないので、飲食物を供えずに、寅の刻(午前2時~4時)に汲んだ水を意味する、井華水(せいかすい)、(華水〈けすい〉とも言う。)を閼伽香水(あかこうずい)として供える。もしくは、その水に花を浮かべて供え、供養する。なお、古来、寅の刻に汲んだ水は水量が盛んで、水に虫が湧(わ)いていないといわれ、極めて清浄な水であるため、諸仏諸尊に供する水として最適であるとされている。
酒器に酒をいれて歓喜天に供えることを言う=酒器に(香酒)を入れて歓喜天に供えて息災を祈る法である。
水歓喜天供
歓喜天の障疑をこうむり、修法が成就しない際、または障疑を被らぬよう定期的にこの法を行うことがある。香水を十一面観音の像に掛けたあと、その香水を男天で単身六背の歓喜天の像にかける。障疑を起こすビナヤキャをなだめ、供養する法でもある。また聖天行者、信者はかならず聖天に対しての勤行、修法の際に軍茶利明王、十一面観音の真言を唱えることが必須である。
歓喜天に供えることに因み、この名前が付いた菓子である[22]。主に歓喜団(かんぎだん)歓喜丸(かんぎがん)、または略称で団喜(だんき)などと呼ぶ。形状は、単体多臂像の歓喜天(男天)が巾着袋(砂金袋)を手にしているため、その巾着袋を模したものといわれている。
本来はモーダカ(modaka)と呼ばれるインド料理とされ、日本では歓喜天・双身毘沙門天への定番の供物になる。経典中には歓喜団の名が記され、材料や作り方についてはさまざま示される。
平安時代中期成立の『和名類聚抄』の飯餅類では「歓喜団、一名団喜」と記し、八種唐菓子の一種として紹介している[23]。江戸時代中期の公卿、近衛家熙は著書で歓喜天の祭り日にある餅を包んで揚げた料理は歓喜団であると載せ、京都の菓子屋では飴を包み油で揚げた菓子を歓喜天への供物として売っていたことから、これは清浄歓喜団のことだという[22]。現在でも京都市の「亀屋清永」が通年菓子にて清浄歓喜団を販売し、今日に遺風を伝えている[24]。
聖天供(歓喜天供)に供物として、歓喜団・歓喜丸と共に、酒・大根(蘿富根、らふこん)が一緒に供えられる[26]。
Oṃ hrīḥ gaḥ hūṃ svāhā
オーム ह्रीः (十一面観世音菩薩の種子[注 3]) गः(歓喜天の種子[注 4]) हूंअहूं [28](軍荼利明王の種子[注 5]) スヴァーハー
オン キリ(キリク) ギャク ウン ソワカ[29][注 6]
『瑜伽悉地品秘要』では、儗哩(キリ)は、観世音菩薩の種子字で、毘那夜迦(Vināyaka)が障礙を作さないようにし、虐(ギャク)は、毘那夜迦神の種子で、此常随魔也(此れ魔を随う也)とされ、唯有観世音及軍荼利菩薩 能除此毘那夜迦難也(唯だ観世音及び軍荼利菩薩有らば、能(よ)く此の毘那夜迦の難を除く也)と説かれている。
歓喜天は利益もさることながら恐ろしい神として畏怖されてきた。
行者の羽田守快が収集した話では、「京都のある老舗の主人が怖いものを聞かれ、『一に聖天さん、二に税務署はんでんな』と答えた」「正しい行法の伝授を受けず、聖天供を行ったある大学教授が不思議なやけどを負って死亡した」等、最近でも恐ろしさを伝える話が残っているという。[30]
聖天は参拝した人々の願いを叶えるために、午前中にその人々の所を廻っているため、午後に参拝すると寺院に聖天がいないという。[31]
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