武宮正樹 九段 | |
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名前 | 武宮正樹 |
生年月日 | 1951年1月1日(74歳) |
出身地 | 東京都 |
所属 | 日本棋院東京本院 |
師匠 | 田中三七一、木谷實 |
段位 | 九段 |
概要 | |
タイトル獲得合計 | 24 |
七大タイトル | |
名人 | 1期 (1995) |
本因坊 | 6期 (1976・1980・1985-88) |
十段 | 3期 (1990-92) |
世界タイトル | |
富士通杯 | 優勝 (1988,1989) |
TVアジア選手権 | 優勝 (1989,1990,1991,1992) |
武宮 正樹(たけみや まさき、1951年1月1日 - )は、囲碁のプロ棋士、九段。名人1期、本因坊6期など。東京都葛飾区出身。日本棋院所属。本因坊時代の雅号は当初「秀樹(しゅうじゅ)」であったが、2度目の獲得以降は「正樹(せいじゅ)」と改めた。また世界選手権設立当初に活躍したため、「世界最強の男」の異名を取った。
中央に大模様を作る厚み重視の棋風は、「宇宙流」という愛称で知られる。田中三七一・木谷実に師事。尊敬する棋士は藤沢秀行名誉棋聖など。同じ木谷実門下の石田芳夫、加藤正夫と並んで「黄金トリオ」「木谷三羽烏」と呼ばれ、木谷一門黄金時代の一翼を担った。
先番では三連星を愛用し、地よりも中央での展開を重視した独特の感覚から作られる大模様作戦は宇宙流と呼ばれファンも多い。一方、白番二連星から柔軟に展開される模様にこだわらない流水のごとくしなやかな碁は自然流と呼ばれる。
韓国の李昌鎬は武宮を「宇宙流は布石の第2革命と呼ぶべきであり、彼は世界の碁を一人で変えてしまった」[1]と評している。また中国の江鋳久も「アマチュアが強くなる秘訣は、武宮先生の碁を並べること」[2]と述べるなど、独創的なそのスタイルは世界でも極めて高く評価されている。
当時名人だった、地に辛く、含みを残さず早々に決め打ちする小林光一の棋風を地下鉄流と揶揄したり、「三々に打つと碁盤から落っこちそうだ」などと発言したりと数々の逸話を持つ。
趣味はゴルフ、バックギャモン、歌、麻雀など。特にバックギャモンにおいては、三大タイトルの一つである盤聖戦で、第12期盤聖となった(2005年)ほどの腕前を持つ。また歌については演歌歌手青山みきとのデュエット曲「鷺と烏のラブゲーム」でレコード(CD)デビューもしている。近年はダンスもし、タンゴやルンバを踊る姿がテレビで紹介されたり、囲碁イベントのプログラムに入れられたりしている。能書家でサイン色紙には「遊神」「宇宙流」「鮮雲」等をよく揮毫する。
デビュー当初はメガネをかけていたが、レーシック治療を受けたため、現在はかけていない。また、髪型もデビューからタイトルを獲得した頃までは七三分けの髪型だったが、2000年頃から剃髪している。
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対依田紀基戦。右辺が武宮の得意とする三連星からのコスミ、通称「牛角三連星」。黒15の肩ツキが武宮特有。この後白22の侵入には隅の地を譲り、黒33のカケに回ってあくまで中央を広げる作戦に出た。四隅を与えたものの中央のスケールで圧勝。
対趙治勲戦。地に辛い趙が珍しく三連星を敷いたが、武宮は四連星の対峙から黒9,11など豪快な中央志向。兄弟弟子でありながら対照的なスタイルの両者の対決は、常にファンの注目を集めた。
本因坊挑戦手合での、対山城宏戦。白の武宮は二連星から14の「上大ゲイマガカリ」の奇手を繰り出した。中央戦に持ち込み、快勝している。
白52(39)
対後藤俊午戦。右下は、通常であれば黒のハマリとされる形だが、黒45のツケが武宮の狙いの手。白に実利を与える代わりに外側を固め、黒55に構えて黒優勢となる。
1988年の本因坊挑戦手合第5局において、一手に5時間7分の大長考をしたことがある。これは持ち時間制導入後最長記録。結局打たれたのは大ナダレ定石の何の変哲もない手であった。局後武宮は「僕は定石を知らないもんだから。それに読むのが楽しくなってきちゃって」と笑って語った。
2003年、名人戦リーグの張栩との対局にて、121手で終局(黒番8目半負け)。それまでの作り碁の最短手数記録(136手)を大幅に更新する新記録となった。
本因坊5連覇がかかった1989年の第44期本因坊戦は、弟弟子にして天敵である趙治勲に0-4で完敗。名誉本因坊資格の獲得はならなかった。2009年、趙とともに本因坊戦のテレビ中継に出演した武宮は、当時から名誉称号はあまり欲しておらず、自分には似合わないと語りつつも、ストレート負けは悔しかったと回顧した。
好物はカレーライス。週に7回以上食べると語り、地方対局で出される料亭の食事より、普通のカレーが食べたいというほど。木谷道場時代も、毎週土曜夜恒例のカレーライスが楽しみだったという。
プロ入段後に武宮の将来を思った師匠の田中三七一により木谷實の弟子となる。師匠を変えるなど普通はありえず木谷もはじめ断ったが「私が生みの親で木谷先生が育ての親ということでお願いできないか」との言葉に木谷は首を縦に振った。木谷が棋士会の会長だった時に田中が副会長を務めていて特別親しくしていた縁も幸いした。
内弟子時代は曺薫鉉(現・韓国棋院所属九段)に麻雀を教わり、石田芳夫・佐藤昌晴らと雀荘に通っていた。