時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保3年11月25日(1832年12月16日) |
死没 | 明治17年(1884年)5月8日) |
改名 | 金五郎(幼名)、忠良、忠経(別名) |
墓所 | 東京都世田谷区北烏山の妙高寺 |
官位 | 従四位下、大監物、和泉守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府寺社奉行→若年寄→老中 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂 |
藩 | 遠江浜松藩主→出羽山形藩主 |
氏族 | 水野氏 |
父母 | 父:水野忠邦 |
兄弟 | 忠精、女(榊原政愛室)、女(伊東祐相室)、女(水野忠幹室) |
妻 | 正室:井上正春の娘、愛 |
子 |
忠弘(長男)、忠美(六男)、静子(奥平昌邁正室のち日下義雄室)、清子(井上正英室のち辰馬半右衛門室) 養女(戸田忠温の娘。水野忠幹継室) |
水野 忠精(みずの ただきよ)は、江戸時代後期・末期の大名、老中。遠江浜松藩第2代藩主、出羽山形藩の初代藩主。忠元系水野家第12代。
天保の改革を行なった老中・水野忠邦の長男。幼名は金五郎。諱は忠精のほか、忠良、忠経。父・忠邦が天保の改革に失敗して隠居したため、家督を継いだ。弘化2年(1845年)、遠江浜松藩から出羽山形藩に移封されるが、これは父の失脚に伴う左遷である。
その後、寺社奉行、若年寄などを歴任し、文久2年(1862年)には老中となった。老中在任中は横須賀造船所の建設を推進したともされる。慶応2年(1866年)に長男の忠弘に家督を譲っている。
慶応4年(1868年)閏4月12日、忠弘とともに上洛する。藩主及び前藩主不在の中、国元は奥羽越列藩同盟に加わる。新政府に対し、忠精を山形に戻し新政府に味方するように説得させることを願うものの、許可されなかった。同年9月、山形藩は明治新政府軍に降伏した。同年12月7日、明治政府から忠弘とともに謹慎を命じられる。翌年これを解かれる。
明治17年(1884年)、52歳で死去した。
※日付=旧暦
父母
正室
側室
子女
養女