永井 尚志(ながい なおゆき/ながい なおむね)は、幕末の武士(旗本)。
文化13年(1816年)11月3日、三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれた。幼名を岩之丞、号を介堂といった。父の晩年に生まれた息子で、既に家督は養子の乗羨に譲っていたことから、25歳のころに旗本の永井尚徳の養子となった。
嘉永6年(1853年)、目付として幕府から登用される。安政元年(1854年)には長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍した。幕府は、長崎に続いて、江戸の築地にあった講武所の中にも海軍教育部門を設けることにし、1857年(安政4年)に総監の永井尚志を始め、長崎海軍伝習所の学生の一部が築地の教員となるべく蒸気船「観光丸」で江戸に移動し、1857年5月4日(安政4年4月11日)に講武所内に軍艦教授所(後の軍艦操練所)が開かれた[1]。安政5年(1858年)にそれまでの功績を賞されて、岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられた。そしてロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。その功績で軍艦奉行に転進したが、直後の将軍後継者争いで一橋慶喜を支持する一橋派に組したため、南紀派の大老・井伊直弼によって罷免され、失脚した。
直弼没後の文久2年(1862年)、京都町奉行として復帰し、元治元年(1864年)には大目付となる。文久3年(1863年)の八月十八日の政変、元治元年(1864年)7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。慶応3年(1867年)には若年寄にまで出世する。大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ戻り、徳川家の駿府転封が決まった後は榎本武揚と行動を共にして蝦夷地へ渡り、「蝦夷共和国」の箱館奉行に就任した。しかし、旧幕府軍は半年あまりの戦いの末、明治2年5月に降伏した。新選組隊士の田村銀之助が大正9年に史談会で語ったところによれば、最初に降伏したのが弁天台場の守備に当っていた永井らで、降伏後は五稜郭の榎本らにも頻りに降伏の勧誘を行っていたという[2]。
明治5年(1872年)、明治政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、明治8年(1875年)に元老院権大書記官に任じられた。
明治24年(1891年)7月1日に死去した。享年76。
※日付は明治5年(1872年)までは旧暦
- 幼いころから利発で読書が好きであったため師について経史を学び、独学で蘭学を修めた。泰西事情に通じていたという。その学才を伝えきいた永井能登守尚徳が、永井家の養子として迎えた。
- 長崎海軍伝習所では、勝麟太郎、矢田堀鴻、木下利義、榎本釜次郎、肥田浜五郎、他数十人を教えた。
- 戊辰戦争で幕府軍が敗れることを知っていたのに、最後まで忠誠を尽くして戦った忠臣として高く評価されている。また、旗本から若年寄に栄進したのは、異例のことである。一方、『越前藩小倉滞陣日記』によると、第一次征長戦争においては後から交渉に関わったにもかかわらず、毛利敬親を捕縛しさらし者にすることを主張し、交渉をまとめた征討総督の徳川慶勝らの面目を潰し、参謀の西郷隆盛に矛盾を指摘され論破されるという失態を犯しているという[4]ところからみて、政治的には旧態依然とした幕府中心主義から最後まで脱しきれなかった人物と見ることもできる。しかし、このような観点は表層的であり、永井の行動は長州藩の過激派を解体するプログラムに沿っており、寛典論を尾張藩との交渉において発言しているのは蘇峰の『国民史』でも明らかである。言い換えると役人らしく幕府の強硬派への釈明から薩摩の意見を容れるポーズを見せたというのが実相である。
- 戊辰戦争では、息子(養子)・岩之丞と共に品川を脱出し、函館の五稜郭に立て籠もり、共に戦った。
- 養子である永井岩之丞の長女・夏子は内務官僚の平岡定太郎に嫁ぎ、その孫が平岡公威、すなわち作家の三島由紀夫である。つまり尚志は三島の養高祖父にあたる。
- 尚志の子孫の集まる「桜木会」があり、年一度の親睦会が開かれ昭和45年(1970年)時には、270名の会員がいたという。三島由紀夫もその一員であり、親睦会に出席したこともあったという。
- 孫の永井亨(経済学博士)は祖父・尚志について、「監察史となって長崎に出張しましたときオランダ人を雇い入れ長崎に海軍伝習所をつくったのであります。(中略)長崎奉行と意見が合わないのを独断でオランダ人からいろいろの技術や材料を入れて、長崎の飽ノ浦という所へ造船所を作った。これがいまの三菱造船所の前身であります。(中略)そのうちだんだん用いられまして、海軍奉行あるいは軍艦奉行、外国奉行などいたしまして後に京都へ参り、京都で若年寄格にまでなりまして、守護職の松平容保(会津藩主)の下ではたらき、近藤勇、土方歳三以下の新撰組の面々にも人気があったと伝えられています」[5]と語っている。また、尚志の晩年については、「向島の岩瀬肥後守という、若くして死にましたが偉い人物がおりました。その人の別荘に入り、その親友の岩瀬を邸前に祭って死ぬまで祀をたたず、明治二十四年七月一日に七十六歳で死んでおります。私は数え年十四の年でしじゅう遊びに参っておりましたのでよく覚えております」[5]と語っている。
- 孫の大屋敦(元住友本社理事、日銀政策委員)は、「軍艦奉行として日本海軍の創設者であったゆえをもって、烏帽子に直垂といったいでたちの写真が、元の海軍記念館に飾られていたことを記憶している。(中略)そういう波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった。徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている。勝海舟なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」[6]と語っている。
- 三島由紀夫は映画『人斬り』(監督・五社英雄)に薩摩藩士・田中新兵衛の役で出演した際のことを、友人・林房雄宛の書簡(1969年6月13日付)の中で、「明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」と記している[7]。
- 田中新兵衛が姉小路公知暗殺の嫌疑で捕縛された時の京都町奉行は、永井尚志であったという。[8]
- 永井家[9]
- 永井尚志系図
- ^ 藤井哲博,『長崎海軍伝習所―十九世紀東西文化の接点』,150-151頁,中央公論社〈中公新書〉,1991年
- ^ 「田村銀之助君の函館戦争及其前後に関する実歴談」(原書房版『史談会速記録』第40巻)
- ^ 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』279頁。
- ^ 参照『越前藩小倉滞陣日記』
- ^ a b 『永井亨博士回顧録 思い出話』
- ^ 『私の履歴書 第22集』(日本経済新聞社、1964年)、『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年)
- ^ 『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)
- ^ 『三島由紀夫 vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代』P.85
- ^ 永井氏系譜(武家家伝)
- 大日本近世史料『柳営補任』、戸川安宅(残花)『旧幕府(合本一)』原書房所収の第五号記載の『永井玄蕃頭伝』
- 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』広論社、1983年。
- 福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』朝文社、2005年。
- 安藤武『三島由紀夫「日録」』未知谷、1996年。
- 『私の履歴書 経済人7』日本経済新聞社出版局、1980年。
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。