永源寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 滋賀県東近江市永源寺高野町41 |
位置 | 北緯35度4分50.1秒 東経136度19分10.5秒 / 北緯35.080583度 東経136.319583度 |
山号 | 瑞石山 |
宗派 | 臨済宗永源寺派 |
寺格 | 大本山 |
本尊 | 観世音菩薩(世継ぎ観音、秘仏) |
創建年 | 康安元年(1361年) |
開山 | 寂室元光 |
開基 | 六角氏頼 |
正式名 | 瑞石山 永源寺 |
札所等 | 神仏霊場巡拝の道第140番(滋賀第8番) |
文化財 |
絹本着色地蔵十王像 11幅、絹本着色約翁徳倹像、塑造寂室和尚坐像ほか(重要文化財) 彦根藩主井伊家墓所(国の史跡) |
法人番号 | 1160005006034 |
永源寺(えいげんじ)は、滋賀県東近江市永源寺高野町にある臨済宗永源寺派の大本山の寺院。山号は瑞石山。本尊は観世音菩薩。紅葉の美しさで知られる。開山忌が、毎年10月1日に行われる。
当寺は、康安元年(1361年)に近江守護六角氏頼(佐々木氏頼)が、寂室元光(正灯国師)に帰依し領内にある勝景の地・雷渓(らいけい)、つまり当地を寂室元光に寄進して、自らが開基となって寂室元光を開山として創建された寺院である[1]。山号は当初は飯高山と称していたが、伽藍の造営時に巨大な台石がわずかの人足の力で動いたことや、本尊の観世音菩薩が大岩の上に出現したことなど様々な石にまつわる奇瑞があったので、それに因んで瑞石山に改号されたという。また、寺名は氏頼の法名である雪江宗永の「永」と氏頼が近江源氏の嫡流であったことから「源」を採って永源寺とされた[1]。
最盛期には寂室元光を慕って2千人の僧が入寺し、56坊もの坊院があった。寂室元光の死後はその4人の高弟、弥天・松嶺・霊仲・越渓の四高足が当寺を守った。また、勅願所として朝廷や足利将軍家の庇護を受けて栄えた[1]。
応仁の乱が始まると、京都から横川景三などの禅僧が当寺に避難してくるなどした。しかし、明応元年(1492年)、次いで永禄6年(1563年)と二度も大きな戦火を受けて全山焼失し、衰亡した[1]。
寛永8年(1631年)に妙心寺の別峰紹印とその弟子で永源寺第79世となった空子元普が再興運動を始めると、寛永20年(1643年)には後水尾天皇の勅命によって一糸文守(仏頂国師)が入寺している。これにより、東福門院や彦根藩などの帰依を受けてようやく伽藍は再興された[1]。
1873年(明治6年)に明治政府の政策により臨済宗東福寺派に属したが、1880年(明治13年)に臨済宗永源寺派として独立している。
鈴鹿山脈を挟んで東側の三重県いなべ市にも永源寺の一部があったといわれ、永源寺跡と呼ばれる場所がある。三重県いなべ市の伝承では、永禄年間(1558年 - 1570年)に織田信長の家臣である滝川一益の軍勢が、北伊勢地方の寺を焼き払いながら迫って来たため、三重県側の永源寺の僧は兵火を逃れるため、寺の宝物などを持ち一夜にして竜ヶ岳の南側にある鈴鹿山脈の石榑峠を越えて、近江の永源寺へ逃れたとされているが、当寺の記録には一切ふれられていない[2]。三重県いなべ市の永源寺の建物は滝川一益の軍勢によって焼き払われたが、水田周辺に石垣の一部が残されている[3]。
本尊は、子がなかった六角満高が熱心に祈願していると、ついに嫡子となる六角満綱が誕生したことに由来を持つ秘仏、世継観世音菩薩である[1]。寺内には彦根藩主井伊直興の墓所がある[4]。
サトザクラのエイゲンジ(永源寺)は、本寺の境内にあったサクラが発祥である。また、東近江市永源寺地区は、永源寺コンニャクや政所茶の産地であり、惟喬親王ゆかりの木地師発祥の地として知られる。また付近からは2010年(平成22年)に国内最古級・1万3千年前の土偶が発掘された。
出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。