設立者 | ジョン・グリッグス |
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設立場所 | アメリカ合衆国カリフォルニア州オレンジ郡 |
主な活動 | 薬物の使用、製造、流通 |
永遠なる愛の共同体(The Brotherhood of Eternal Love)は、幻覚剤の使用と流通のための組織で、1960年代半ばから1970年代後半に活動した。[1]アメリカで「サイケデリック革命」のために薬物を生産し流通させた[2]。組織は、ジョン・グリッグス(John Griggs)がコミューン(共同体)としてはじめたが、1969年にはLSDを製造し、ハシシを輸入した。ディズニーランドのあるカリフォルニア州オレンジ郡を拠点とし、1960年代後半から「オレンジ・サンシャイン」と名付けられたLSDを、ヴェトナムのアメリカ軍キャンプへと流通させた[3]。最盛期には世界最大のLSD流通網を形成し、FBIは750人で構成されるヒッピー・マフィアと呼んだが、その実態はLSDを世に広めることで世界を変えるということを目的にしていた[3]。
事のはじまりは1966年、「百姓」・ジョン・グリッグスと呼ばれるがっしりとした男が率いるバイクで暴走する不良たちは、ある男に銃を突きつけ隠し持っていたサンド社製のLSDを奪いとり、その1週間後、ジョシュア・ツリー国立公園の丘でLSDを飲み干した[3]。グリッグスは神秘主義に染まっていき、その年の夏にはティモシー・リアリーに会いにミルブルックまで行った[3]。リアリーは、グリッグスについて「字さえろくに書けないが、カリスマがあり、瞳には輝くものがある」と興味を抱いた[4]。グリッグスは、師とあがめるリアリーの言葉を受け、1966年10月、永遠なる愛の共同体を正式に宗教法人として発足する[4]。アメリカ先住民のネイティブ・アメリカン・チャーチが幻覚サボテンのペヨーテを使うように、LSDを法的に堂々と使える日を夢見た[4]。以下のような目的をかかげた。
神が存在するという意識を世界の人々へとよりいっそう広め、キリスト、ブッダなど偉大な指導者の愛と知恵をすべての人々に広め、神の意志を伝え、そしてすべての人間には神聖な権利が、神と交信するという権利が備わっていると信じる[4]。
グリッグスはリゾート地のラグーナ・ビーチに本拠地をかまえ、海辺にコミュニティを作って芸術家を引き寄せ、彼らにLSDを供給した[4]。健康食品や衣服、喫煙具を売る「ミスティック・アート・ワールド」という店が開かれ、ここに引き寄せられたヒッピーは共同体のメンバーとなり、安定した収入がもたらされた[5]。しかし、増加するメンバーのために土地が必要となり、その資金源として最初は大麻を密輸し、後にオーズリーの作ったLSDを扱った[5]。1967年にオーズリーが逮捕されると、ニコラス・サンドと、ティム・スカリーという2人の化学者が、ビリー・ヒッチコックをスポンサーにして後釜を担った[6]。しかしスカリーはLSDこそが人間の無慈悲さをなくすと信じる純粋さを持ち、一方、サンドは暴走族のヘルズ・エンジェルズに密売を任せていたような人物で、じきに2人の間には溝ができる[6]。1968年6月に2人の化学工場にFBIの捜査が入るが、弁護士が頑張った結果、工場を取り返し、そして永遠なる共同体が接触をはかってくる[6]。1969年1月には、ヒッチコックをスポンサーにして共同体が流通を担い、LSD工場はフル稼働することになる[6]。そして半年で1000万回分といわれるLSDを製造し、オレンジ色の錠剤が「オレンジ・サンシャイン」の名で世界に流通し名をとどろかせた[7]。その年、グリッグスが薬で死に、ヒッチコックに脱税など容疑がかかると、ロナルド・ハードリー・スタークという怪しげな男があらわれ、LSDを早く製造する方法を知っているとしてLSDを持ち込み共同体を通じて流通させ、また材料を供給し製造もおこなった[8]。
1970年、大麻所持で服役していたティモシー・リアリーが脱獄した後アルジェリアに行かせるために、永遠なる愛の共同体は、25,000ドルで極左組織のウエザーマンを雇った[9][10]。
薬物捜査が多くのメンバーをカルフォルニア州、オレゴン州、マウイにおいて逮捕し、組織は1972年8月5日に終止符が打たれたが、全員が一か月以内に釈放された。捜査を免れた人も地下に潜るか、海外へと逃亡した[2]。 このどさくさに紛れ、スタークは共同体の財産を自分のものにしてしまった[8]。スタークは1982年にオランダで薬物取引で逮捕され、アメリカに送還されたが時効のために取り下げられ、2年後心臓発作で死んだ[11]。1994年と1996年にさらなるメンバーが逮捕され2009年に最後のメンバーが逮捕された[1]。ハシシを1度輸入した罪で2か月の刑に服した[12]。
他の組織では、1977年にイギリスのリチャード・ケンプ率いるLSD製造グループが逮捕されたとき押収された量は600万服分が押収され、1970年代に世界の半分を流通させていたとされる[13]。ケンプによるLSDを安価で早い製造法は1970年に完成し、スタークが知っていた方法である[14]。
2010年、ニコラス・スコーはこの共同体に関する著書『オレンジ・サンシャイン』(未訳、Orange Sunshine)を出版した[15]。2016年、ウィリアム・カークリー監督のドキュメンタリー『オレンジ・サンシャイン』が公開された[2]。