江藤 新平 えとう しんぺい | |
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生年月日 |
1834年3月18日 (天保5年2月9日) |
出生地 |
日本、肥前国佐賀郡八戸村 (現・佐賀県佐賀市八戸) |
没年月日 | 1874年4月13日(40歳没) |
死没地 | 日本、佐賀 |
出身校 | 弘道館 |
前職 | 武士(佐賀藩士) |
配偶者 | 江藤千代子 |
子女 |
江藤熊太郎(長男) 江藤新作(二男) |
親族 |
江藤胤光(父) 江藤源作(弟) 江藤夏雄(孫) 江藤小三郎(曾孫) 江藤兵部(曾孫) 江藤源九郎(甥) |
初代 司法卿 | |
在任期間 | 1872年5月31日 - 1873年10月25日 |
在任期間 | 1873年4月19日 - 1873年10月25日 |
江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期の武士(佐賀藩士・権大参事)、明治時代の政治家、官吏、教育者。幼名は恒太郎、又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白または白南。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。位階は贈正四位。
東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長(初代)、文部大輔(初代)、司法卿(初代)、参議を歴任したが、明治六年の政変で下野。佐賀の乱の首謀者として処刑された。
立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、日本近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。また、司法制度・学制・警察制度の推進と共に「四民平等」を説き浸透させた。
天保5年(1834年)、佐賀藩士・江藤家の第21代として生まれ、嘉永2年(1849年)藩校・弘道館に入学。文久2年(1862年)に脱藩上京して尊攘勢力に接近するも失望し帰藩、永蟄居となる。慶応3年(1867年)幕末の激変で許され出京して、明治元年(1868年)に新政府より東征大総督府軍監・徴士に任命され、江戸鎮台判事、鎮将府判事、会計官判事として江戸の民政行政に携わり、江戸奠都論(東京奠都)を建議する。
明治2年(1869年)に帰藩し佐賀藩・権大参事として藩政改革を指導したのち、太政官中弁として政府に復帰した。翌年、制度取調専務となり新政府の官制改革案の策定に指導的役割を果たし、民法会議を主宰して民法典編纂事業を行い、最初の民法草案官僚として卓越した見識を持つ。明治4年(1871年)の廃藩置県後、文部大輔、左院一等議員、左院副議長を経て、初代・司法卿に就任し、司法権統一、司法と行政の分離、裁判所の設置、検事・弁護士制度の導入など、司法改革に力を注ぎ、日本近代の司法制度の基礎を築いた。
明治6年(1873年)に参議に転出し太政官・正院の権限強化を図った。同年、征韓論争に敗れて辞職。翌年に民撰議院設立建白書に署名する。帰郷後は佐賀の乱の指導者に推され、征韓党を率いて政府軍と戦うが敗れる。高知県東部の甲浦で逮捕され、佐賀城内の臨時裁判所で死刑に処された。その功績から、「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」に列せられる。
天保5年(1834年)2月9日、肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市八戸)で、佐賀藩士・手明鑓で郡目付役を務める江藤胤光[注釈 1]と妻・浅子の間に長男として生まれる。江藤氏は肥前小城郡晴気保の地頭で九州千葉氏の遠祖である千葉常胤の末裔を称した[注釈 2]。父は手明鑓という下士出身であるが、第九代藩主・鍋島斉直、第十代藩主・鍋島直正(閑叟)の下、筑前福岡藩と共に長崎御番を命ぜられていた肥前佐賀藩において郡目付に抜擢されるなど頭角を現していた[1]。千葉氏は平氏の出で、桓武天皇の第五皇子・葛原親王の皇子・高見王の孫・平良文の子孫である[2]。明治以後の江藤の署名には常に「平胤雄」とある。
嘉永元年(1848年)に、15歳で元服して胤雄(たねお)と名乗り、翌2年に藩校・弘道館へ入学。教授の枝吉南濠の長男で史学を教授する枝吉神陽に傾倒する[3]。弘道館では、内生(初等中等)課程は成績優秀で学費の一部を官給されたが、父が職務怠慢の咎により郡目付役を解職・永蟄居の処分となったため生活は困窮し、外生課程に進学出来ず枝吉神陽の私塾に学ぶ。この頃、江藤は窮乏生活を強がって、「人智は空腹よりいずる」を口癖にしたという。嘉永3年(1850年)に神陽が楠木正成戦没日をトして、梅林庵で「義祭同盟」を結成すると副島種臣、中野方蔵、大木喬任と共に最初に結成に参加した[3]。
嘉永6年(1853年)6月のアメリカのペリー艦隊の来航やロシアのプチャーチン艦隊などが来航して通商を求めるなどの時勢の影響を受け、安政3年(1856年)9月、22歳の時に開国の必要性を説いた形勢、招才、通商、拓北の4章から成る長文の意見書『図海策』を執筆。この『図海策』において江藤は開国や蝦夷地開拓等を提案、特に佐賀藩出身で幕府の儒者となった古賀侗庵、古賀謹一郎父子がロシア研究の第一人者である事に影響を受けた蝦夷地開拓論は、藩主の鍋島直正から高い評価を受け、[4]藩士・島義勇の蝦夷現地調査に繋がった。
安政4年(1857年)に従姉の江口千代子と結婚[5]。同年に佐賀藩御火術方目付に抜擢されて、翌万延元年(1860年)には上佐賀代官所手許に転じ、文久2年(1862年)には代品方(貿品方)に移り藩の貿易事務に従事した[6]。
安政5年(1858年)に京都に遊学していた同藩の副島種臣が公家・大原重徳に王政復古を建言し、万延元年(1860年)に大橋訥庵の塾と江戸の昌平黌で学ぶ中野方蔵が江藤と大木に手紙で大政奉還を唱えるなど、幕末の尊王攘夷運動が活発となり文久2年(1862年)1月に坂下門事件で中野が獄中死すると、同年6月27日に同志の大木喬任が脱藩の旅費を工面し、京都へ脱藩[7]。長州藩邸で桂小五郎(後の木戸孝允)を訪ね、姉小路公知らの知遇を得た。
9月に三カ月余りの脱藩期間を経て佐賀藩に帰藩した江藤に対し、通常脱藩は死罪であったが、江藤の見識を高く評価した鍋島直正の直截裁断により永蟄居(無期謹慎)に罪を減刑した[8]。藩主・直正の執成しにより一命を救われたが、永蟄居に処せられ禄を失ったため、小城郡大野原山中の廃寺で寺子屋を始め、2年後に佐賀城南丸目村に移住した。この間、藩庁の目をかいくぐり政治活動を行う。慶応元年の長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では鍋島直正や年寄役・原田小四郎へ献言書を提出。15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い江戸幕府が瓦解すると、江藤は永蟄居を解除され郡目付として復帰する。
慶応3年(1867年)12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が行われ、明治新政府が誕生すると佐賀藩も呼応して副島種臣と共に上京する。明治維新に遅れて参加した佐賀藩であったが、江藤は薩摩藩や長州藩主体の討幕派諸藩士の中で頭角を現し、鳥羽・伏見の戦いが始まると土佐藩士・小笠原唯八と共に東征大総督府軍監に任命され、江戸へ偵察に向かう[9]。薩摩藩士・西郷隆盛と幕臣・勝海舟の会談で江戸開城が決定するや、東海道先鋒総督・橋本実梁に随行して西郷隆盛や海江田信義と共に江戸城内に入り、徳川側の重要簿や国別明細図等を入手した。慶応4年(1868年)4月下旬に京都へ向かい、同志の大木喬任と連名で東征大総督府副総裁・岩倉具視に、江戸を東京と改称すべきこと(東京奠都)や京都と東京を鉄道で結ぶ事等を献言[10]している。
慶応4年(1868年)5月に関東監察使・三条実美の下で徴士に任命され、旧幕臣らを中心とする彰義隊掃討では、軍務官判事・大村益次郎と共に軍監として上野戦争にて指揮を執り、佐賀藩のアームストロング砲で半日で瓦解に追い込む等の功を立てる[11]。次いで江戸鎮台判事に任ぜられ、民政兼会計営繕を担当。7月17日に鎮将府が発足すると、江藤は旧勘定奉行に相当する鎮将府会計局判事に任じられ、民政・財政・税務を担当。10月13日に懸案の明治天皇の東京行幸が実現すると、太政官発足に伴い江藤は会計官(後の大蔵省)東京出張所判事に転じた。明治元年に佐賀藩の藩政改革の為に副島種臣と共に帰郷し、副島と共に佐賀藩・参政として執政・鍋島河内と共に藩治規約を制定。6月には佐賀藩の権大参事に任ぜられ、藩政の頂点として藩政改革を指揮し、近代的な民政制度を次々に導入した[12]。特徴的なものに、寄合制度(議会制度)の導入等が挙げられる。
明治2年(1869年)には、維新の功により佐賀藩士として四番目に高い賞典禄を100石賜る。同年10月18日に、参与・横井小楠、兵部大輔・大村益次郎の暗殺により人材が乏しくなった政府は、江藤の上京を召命。11月8日に土佐藩士・土方久元、阿波藩士・中島錫胤と共に太政官中弁に任ぜられる。12月20日の夜に、葵町の佐賀藩邸に向かう駕籠の外から佐賀藩の6名に襲われ、右肩を刺され重傷を負う[13]。応急処置を受け、明治天皇より菓子と養生料150両が下賜される。この一件で鍋島直正は6名全員を死罪とした。
明治3年(1870年)2月30日に制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大久保利通と木戸孝允の対立による民部省と大蔵省の対立(民蔵分離)問題には加わらずに、大納言・岩倉具視の下で国政の基本方針答申書(『政治制度上申案箇条』)を起草し、大久保利通と共に右大臣・三条実美に提出。この答申書で江藤は、フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示し、憲法の制定作業に着手した[14]。
江藤の意見書を基に、9月10日に政府が「藩制」を布告。次いで「政体書」の「職員令」の改革を通じて、司法権の自立を説き司法台と裁判所の新設を提言[14]し、刑部省と弾正台の合併を訴えた。神田孝平訳『和蘭政典』を参考にして江藤が構想した国法会議が明治3年(1871年)11月27日に召集され、明治天皇、右大臣・三条実美、大納言・嵯峨実愛、参議・木戸孝允、同・大久保利通、制度取締御用掛・江藤、同・後藤象二郎、大学大丞・加藤弘之、大史・楠田英世、権大史・長炗が出席。日本最初の私擬憲法となる『国法会議案、附国法私議』を起草した。
傍ら、制度局が太政官制改革で左院に移されるまで民法会議を主催し、箕作麟祥らとともに民法典編纂に取り組む。参議・副島種臣が箕作に翻訳させた『ナポレオン法典』の刑法を見た江藤は、「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」、「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」[16]というほどフランス民法典を高く評価し、普仏戦争でフランスが大敗し、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒め、以下のような漢詩を残している[要出典]。
廟堂用善無漢蕃 廟堂善を用いるに 漢蕃無し孛国勢振仏国蹲 孛国勢い振るいて 仏国蹲(うずくま)る (※最初の漢字は『字の上に十』。 [JIS] 5556 )
仏国雖蹲其法美 仏国蹲ると雖も 其の法美なり
哲人不惑敗成痕 哲人惑わず 敗成の痕
もっとも、実際にどの程度徹底したかは問題であり、
明治4年(1871年)7月29日に立法審議機関・左院が設置され制度局が同院に移管されると、左院一等議員、次いで副議長となる。江藤は左院議長に民法会議や国法会議で同席した工部大輔・後藤象二郎を推薦して就任させた。司法省明法寮にて明法権頭・楠田英世がまとめた『皇国民法仮規則』やジョルジュ・ブスケ、アルベール・シャルル・デュ・ブスケを顧問格にして、明治6年(1873年)3月10日には『民法仮法則』全九巻を纏めた[24]。
廃藩置県が行われ、文部省が設置されると文部大輔(文部卿欠員の為、最高責任者)として大学校・大学南校・大学東校の分裂問題を担当。文部省務の大綱を定め、後任者で江藤の盟友である文部卿・大木喬任の下で「学制」として体系化された[25]。江藤は左院の長として国家形成に携わる一方、教部省御用掛を命ぜられ、宗教の自由化や四民平等、警察制度整備など近代化政策を推進。
明治5年(1872年)4月25日、江藤は左院から初代・司法卿に任ぜられる。江藤の就任には、大蔵大輔・井上馨の強力な推薦と、部下である権中判事・島本仲道や同・河野敏鎌の推薦があり、調整型の大輔・佐々木高行に代わり、『見治条例』や『司法職務定制』、司法省による全国の裁判事務の統一、司法省裁判所(一等裁判所)を設置するなど次々に改革を進めた。8月5日には、神奈川・埼玉・入間の3県で裁判所を開設させたのを皮切りに、全国に裁判所を増設。「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。次いで、フランス司法制度調査の傍ら、ボアソナードを政府の法律顧問に雇い入れた。この司法省の下級官僚からは、明治を代表する法制家であり大日本帝国憲法の素地を作った井上毅、福岡孝弟、岸良兼養、楠田英世、鷲津宣光、鶴田皓、川路利良、沼間守一、名村泰蔵、益田克徳などが育った[26]。
同年9月12日、江藤は司法卿として鉄道開業式典に参列し、明治天皇や明治政府の要人等と共に新橋-横浜間を走行したお召し列車に乗車している。
外務卿・副島種臣からパリで豪遊していた山城屋和助の報告を受け、江藤は大検事・島本仲道に山城屋の捜査を命じる(山城屋事件)。窮地に陥った山城屋が陸軍省応接室で割腹自殺し、陸軍大輔・山縣有朋は辛うじて政治生命を繋ぐことが出来たが、次いで大蔵省の事務を取り仕切っていた大蔵大輔・井上馨と小輔・渋沢栄一の専横を追求した事で長州閥から逆恨みを買うきっかけとなる[27]。
明治6年(1873年)1月24日に、司法省予算削減に抗議して部下の福岡孝弟、楠田英世等と共に司法卿の辞表を提出。4月19日に政府から請われ参議に就任。5月3日に予算編成権が大蔵省から正院に引き上げられて大蔵大輔・井上馨が辞表を提出して野に下り、尾去沢銅山事件や小野組転籍事件、三谷三九郎事件を江藤は厳しく追及。木戸孝允が盟友・井上馨の救済に乗り出す始末となり、江藤はついに長州藩閥の恨みを買う事となる[28]。
明治6年(1873年)10月14日に行われた閣議で、朝鮮出兵を巡る征韓論問題が議題に上り、江藤は西郷隆盛の意見を支持。この政局の動乱に乗じて長州閥の権威復権に動く工部大輔・伊藤博文の大久保利通や開拓次官・黒田清隆への働きかけにより、22日に岩倉具視邸を訪問した江藤・西郷隆盛・板垣退助・副島種臣の四参議の閣議決定上奏が岩倉によって握りつぶされると、10月24日に四参議は下野した。(明治六年政変)
下野後、江藤は政府から東京に留まることを求められ、江藤は板垣・副島・後藤らと善後策を相談。銀座三丁目に「幸福安全社」を設けて日本最初の近代政党である「愛国公党」を副島種臣邸で結成。1月12日に「民撰議院設立建白書」に署名し『日新真事誌』に公表。明治6年(1873年)12月には、佐賀征韓党の中島鼎蔵と山田平蔵が上京し、江藤と副島に帰県して指導に当たって欲しいと促すと、副島が板垣の自重により残留を決意し、江藤は後藤や大隈の慰留に従わず、明治7年(1874年)1月13日に横浜から汽車に乗り伊万里、嬉野温泉を経て佐賀に入るも、不平士族に手が付けられないと思い、長崎郊外の深堀で義弟・江口村吉と合流し静養した。
江藤離京の後に喰違の変が起こり、1月28日に内務卿・大久保利通は佐賀県権令・岩村通俊を更迭し、岩村高俊を後任に据え佐賀県下の士族反乱対策を準備し、次いで熊本鎮台に出兵を命じた。2月4日にかねてから憂国党から使者を送られ、佐賀鎮撫の為に帰県してきた島義勇と長崎で面会。主義主張の異なる島とは相容れない仲であったが、父祖の地を守るためには官兵を打ち払わなければならないと決意し、島と共に立つ決意を固めた。2月12日に、江藤はついに佐賀へ入り、2月14日に佐賀に入った島義勇と共に、佐賀征韓党及び憂国党の首領として擁立された。
2月16日夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発する。佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村高俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。
大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着すると、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。しかし、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。
江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日に鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。続いて飫肥の小倉処平の救けで高知へ行き、3月25日、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。
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獄門に処せられた江藤新平 |
4月7日、江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に護送され、急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった権大判事・河野敏鎌によって裁かれた。河野は江藤を取り調べ、弁論や釈明の機会も十分に与えないまま死刑を宣告した。訊問に際し敏鎌は江藤を恫喝したが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝され恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかった。
既に、内務卿・大久保利通の判断で結審前に判決案は固まっており[注釈 3]、府県裁判所である佐賀裁判所は単独で死刑判決が出来ないにもかかわらず、4月13日に河野により除族の上、梟首の刑を申し渡され[注釈 4]、その日の夕方に嘉瀬刑場において島義勇、山中一郎ら十一名と共に斬首に処された。首は千人塚で梟首された。この一件は、大久保利通の「私刑」として捉えられている[30]。
刑に挑んで江藤は、「唯皇天后土のわが心知るあるのみ」と三度高唱し、従容として死についたという。判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた[注釈 5]。この裁判について、巷では大久保が金千円で河野を買収して江藤を葬ったという風評が立ったが、河野自身は晩年になって立憲改進党掌事の牟田口元学に自身の行動に関する弁明をしている。
佐賀の乱の時には、断じて江藤を殺して之を疑わず、加うるに、此の犯罪の巨魁を捕えて更に公然裁判もなく、其の場所に於いて、刑に処したるは、之を刑と云うべからず。其の実は戦場にて討ち取りたるものの如し。鄭重なる政府の体裁に於いて大なる欠典と云うべし — 『丁丑公論』
黒田清綱は、この一件について次のように語っている。
各国では国事犯を死刑にしないのが通則となっているのに、江藤を死刑にしたのは残酷であった — 『黒田清綱実話』
辞世の句は、
「ますらおの 涙を袖に しぼりつつ 迷う心は ただ君がため」
明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。大正5年(1916年)4月11日、贈正四位。
墓所は佐賀県佐賀市の本行寺。墓碑銘「江藤新平君墓」は書家としても知られる同門の副島種臣が明治10年(1877年)に手がけた。同市の神野公園に銅像もある。
公職 | ||
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先代 (新設) |
左院副議長 1871年 - 1872年 |
次代 伊地知正治 |
先代 秋月種樹(→欠員) 大学大監 |
文部大輔 1871年 |
次代 (欠員→)福岡孝弟 |