池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 1973年9月1日)は、日本の映画監督、脚本家である[1][2]。本名・旧名池田 義臣(いけだ よしおみ、いけだ ぎしん)[1]。映画製作者連合会事務局長、映画倫理規程管理委員会(旧映倫)副委員長を歴任[2]。
1892年(明治25年)3月10日、長野県上水内郡三輪村(現長野市)に生まれる[2]。
長野郵便局(現在の長野中央郵便局)勤務を経て、1920年(大正9年)、松竹蒲田撮影所に入社、新派系の演出家賀古残夢、野村芳亭に師事する[1][2]。翌1921年(大正10年)には、田中欽之が監督した『親なき娘』の脚本を書く[1]。同年10月21日に公開された、柳川春葉原作、伊藤大輔脚本、栗島すみ子主演の映画『生さぬ仲』で監督に昇進している[1][2]。
1923年(大正12年)、女優の栗島すみ子と結婚する[3]。同年9月1日に起きた関東大震災で松竹蒲田撮影所は稼動不能になり、松竹下加茂撮影所に移転する[1]。翌1924年(大正13年)2月には、すでに蒲田が復興し、池田は『スヰート・ホーム』を発表している[1]。
1932年(昭和7年)8月19日に公開された、栗島すみ子主演の『情人』で、初めてトーキーを手がけるが、以降もサイレント映画、劇伴の入ったサイレント映画であるサウンド版も手がけている[1]。1936年(昭和11年)、新しく建設された松竹大船撮影所に移り、トーキー『結婚の条件』を撮り、同年12月19日に公開された田中絹代主演のトーキー『わが母の書』を最後に、映画監督を引退した[1]。1937年(昭和12年)、妻の栗島すみ子もまた引退している[3]。
1945年(昭和20年)12月1日に発足した「映画製作者連合会」(のちの日本映画連合会、現在の日本映画製作者連盟)の初代事務局長に就任する。1951年(昭和26年)、「映画倫理規程管理委員会」(旧映倫)の副委員長を兼任した。
1973年(昭和48年)9月1日、死去した[2]。満81歳没。妻の栗島が死去したのは1987年(昭和62年)8月16日であった[3]。長男は日本テレビ放送網ディレクターの池田義一。
2012年(平成24年)6月現在、池田の監督作のうち、現存し、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵される上映用プリントは、『不如婦』(『ほとヽぎす』、1922年)、および『小唄集 第二篇 ストトン』(『ストトン節』、1924年)の2作のみである[4]。
特筆以外は「監督」のみである[1]。トーキー、あるいはサウンド版と特筆されていないものはすべてサイレント映画である[1]。特筆以外はすべて松竹蒲田撮影所作品である[1]。
- 1921年
- 『親なき娘』 : 監督田中欽之、1921年2月28日公開 - 脚本(「池田義臣」名義、以下改名まで同様)[1]
- 『夕刊売』 : 監督野村芳亭、1921年5月8日公開 - 脚本
- 『郷愁』 : 監督賀古残夢、1921年6月3日公開 - 脚本
- 『黎明の空』 : 監督賀古残夢、1921年7月14日公開 - 原作・脚本
- 『虚栄の果』 : 監督賀古残夢、1921年7月28日公開 - 脚本
- 『荒木又右衛門』 : 監督森要、1921年7月28日公開 - 脚本
- 『更け行く夜』 : 監督賀古残夢、1921年8月18日公開 - 脚本
- 『生さぬ仲』 : 1921年10月21日公開
- 『赤光』 : 1921年11月15日公開
- 『一太郎やあい』 : 1921年11月15日公開
- 『暮れ行く駅路』 : 1921年12月5日公開 - 原作・脚本・監督
- 『君が代』 : 1921年12月30日公開
- 『旭光照波 (潮の朝)』 : 1921年12月31日公開
- 1922年
- 『片羽鳥』 : 1922年1月31日公開
- 『許さぬ恋』 : 1922年2月10日公開
- 『不如婦』 : 1922年3月9日公開 - 脚本・監督(プリント現存)[4]
- 『乳姉妹』 : 1922年4月1日公開
- 『南山血染の軍旗』 : 1922年4月16日公開
- 『母の心』 : 1922年5月1日公開
- 『祇園夜話』 : 1922年6月10日公開 - 脚本・監督
- 『想夫憐』 : 1922年6月30日公開 - 脚本・監督
- 『曳かれ行く日』 : 1922年8月21日公開 - 脚本・監督
- 『妖女の舞』 : 1922年10月1日公開 - 原作・脚本・監督
- 『悔恨』 : 1922年10月14日公開 - 原作・脚本・監督
- 『粉河寺』 : 1922年10月21日公開
- 『残光』 : 1922年11月19日公開 - 脚本・監督
- 『傑作集粋 金色夜叉 明治文壇海岸の悲劇』 : 1922年12月31日公開
- 1923年
- 1924年
- 1925年
- 1926年
- 1927年
- 1928年
- 『青春の小径』 : 1928年1月10日公開 - 原作・監督
- 『女の一生』 : 1928年4月7日公開
- 『夫婦』 : 1928年6月29日公開
- 『愛の行末』 : 1928年10月5日公開
- 1929年
- 『愛人 時枝の巻』 : 1929年1月15日公開
- 『黄昏の誘惑』 : 1929年3月15日公開
- 『浮世小路』 : 1929年5月3日公開
- 『希望』 : 1929年8月30日公開
- 『明眸禍』 : 1929年11月15日公開
- 1930年
- 1931年
- 1932年
- 1933年
- 1934年
- 1935年
- 1936年
- 『映画倫理規程についての座談会』、長江道太郎・小林勝らとの座談会、『映画評論』第6巻10号所収、新映画、1949年10月
- 『アメリカにおける映画倫理規程の管理』、『映画評論』第8巻1号所収、新映画、1951年1月
- 『アメリカ土産 - 脚本を大切にしたい』、『シナリオ』第7巻2号所収、シナリオ作家協会、1951年1月
- 『四つの島から飛び出せ』、曾我正史・川喜多長政との鼎談、『キネマ旬報』第10号所収、キネマ旬報社、1951年3月
- 『映画宣伝倫理について』、『新聞と広告』第6巻4号所収、日本電報通信社、1951年4月
- 『映画PRの種々相』、『パブリックリレーションズ』第2巻9号所収、日本証券投資協会、1951年9月
- 『佃君を憶う - 佃血秋氏追悼』、『シナリオ』第5巻7号所収、シナリオ作家協会、1951年9月 - 佃血秋の追悼文
- 『産業体制の確立と輸出振興 - 映画産業白書によせて』、『映画新報』第21号所収、映画新報社、1951年10月1日
- 『映画倫理規程の意義』、『映写技術リポート』第7号所収、日本映画機械工業会出版部、1951年11月
- 『映画倫理規定と大衆 - わたしの社会教育』、『社会教育』第7巻5号所収、全日本社会教育連合会、1952年5月
- 『映画界占領政策を省りみて』、『キネマ旬報』第41号所収、キネマ旬報社、1952年7月
- 『東南アジア映画界の展望』、『キネマ旬報』第83号所収、キネマ旬報社、1954年
- 『映倫は何をしているか - 映画の倫理』、『視聴覚教育』第10巻9号所収、日本視聴覚教育協会、1956年7月
- 『映画の波紋をめぐり』、『社会教育』第11巻9号所収、全日本社会教育連合会、1956年9月
- 『教育と映画』、『学校経営』第2巻8号所収、第一法規、1957年8月
- 『映画産業躍進の実態 - 戦後日本映画産業の足跡をかえりみて』、『シナリオ』第15巻9号所収、シナリオ作家協会、1959年9月
- 『新映倫規定とそのいきさつ - 映画のおよぼす影響と世論』、『社会教育』第14巻12号所収、全日本社会教育連合会、1959年12月