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名前 | ||||||
カタカナ | シェン・シャンフー | |||||
ラテン文字 | Shen Xiangfu | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 中華人民共和国 | |||||
生年月日 | 1957年5月27日(67歳) | |||||
出身地 | 北京市 | |||||
身長 | 172cm[1] | |||||
体重 | 66kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 左 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1974-198x | 北京足球倶楽部 | |||||
1988-1991 | 富士通 | |||||
代表歴 | ||||||
1977-1986 | 中国 | 37 | (7) | |||
監督歴 | ||||||
1991-1993 1994-1995 1996-1997 1997-1998 2000-2004 2005-2006 2007-2009 2010-2011 2012 2013-2014 2015 2015-2016 2019 |
富士通(コーチ) 富士通 北京国安(コーチ) 北京国安 中国U-20、U-23代表 北京国安 広州医薬 長春亜泰 河南建業 上海申花 CFクラック アトレティコ・ムセロス 天津天海 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
沈 祥福(ちん しょうふく、Shen Xiangfu、1957年5月27日-)は中華人民共和国北京市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW(ウインガー)。
選手時代は北京足球倶楽部(現在の北京国安)や日本サッカーリーグ(JSL)2部の富士通サッカー部(現在の川崎フロンターレ[2])に在籍、主に左ウイングとしてプレーをした。また中国代表として、1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選に出場し最終予選進出に貢献するが、1982年1月10日に行われたニュージーランドとのプレーオフで敗れ、ワールドカップ出場を逃している。
1991年に現役引退後は富士通のコーチや監督を務め1996年に帰国。古巣の北京国安を指揮した後、中国U-20代表監督に就任。2001 FIFAワールドユース選手権でベスト16に導き、この大会を制したアルゼンチンと接戦を演じると、その手腕が高く評価された。
その後、中国代表コーチとして2002 FIFAワールドカップに参加。またボラ・ミルティノビッチ監督の退任後は監督代行を務めていた。これに続いてU-23代表監督として2004年のアテネオリンピック予選に挑んだが、予選敗退に終わり、監督を辞任した。
2007年からは中国甲級リーグ(2部リーグに相当)の広州医薬の監督に就任。中国超級リーグ(CSL、1部リーグに相当)昇格へと導いている。
日本サッカーリーグ成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1988-89 | 富士通 | 14 | JSL2部 | 27 | 4 | 1 | 0 | ||||
1989-90 | 29 | 7 | 2 | 0 | |||||||
1990-91 | 22 | 2 | 2 | 0 | |||||||
通算 | 日本 | JSL2部 | 78 | 13 | 5 | 0 | |||||
総通算 |
日本国内成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | |||
1994 | 旧JFL | 富士通 | 10位 | 30 | - | 11 | - | 19 | - | 予選敗退 |
1995 | 12位 | 30 | 34 | 11 | - | 19 | - | 1回戦 |