河辺 虎四郎 | |
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河辺虎四郎中将 | |
生誕 |
1890年9月25日 日本 富山県 |
死没 | 1960年6月25日(69歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1912 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
墓所 | 谷中霊園 |
音楽・音声外部リンク | |
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故加藤建夫陸軍少將を偲びて - 歴史的音源(国立国会図書館デジタルコレクション) |
河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9月25日 - 1960年(昭和35年)6月25日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は中将。富山県出身。
1890年(明治23年)9月、富山県礪波郡苗加村に河辺純三の四男として生まれる。河辺正三大将(陸士19期歩兵科)は兄、瀧田俊吾軍医大佐は弟である。1905年(明治38年)に正三、虎四郎兄弟は陸軍士官学校、名古屋陸軍幼年学校に合格している。兄弟は草鞋ばきでそれぞれの受験地金沢までの往復を共にした(草地貞吾著『将軍32人の「風貌」「姿勢」』p.42,43)。
その後、1912年(明治45年)5月に陸士第24期砲兵科を卒業。このクラスは鈴木宗作、櫛淵鍹一、酒井康、柴山兼四郎、秋山徳三郎、甘粕正彦、岸田國士など多士済々であった。同年12月、名古屋城敷地内に駐屯する第3師団所属野砲兵第3聯隊に同期生細川忠康とともに配属。1921年(大正10年)には陸軍大学校第33期を優等(軍刀組)で卒業している。以降、作戦畑を歩みながら関東軍参謀、近衛野砲兵聯隊長、第7飛行団長といった部隊職、ソビエト連邦やドイツの大使館付武官も経験している。
特に昭和軍事史のターニングポイントとなる柳条湖(溝)事件時は参謀本部作戦班長、盧溝橋事件時は参謀本部戦争指導課長という枢要なポストにいて、独断専行の現地陸軍部隊を時の上司(満州事変時は今村均作戦課長、日中戦争時は石原莞爾作戦部長)と協力して引留めようと努力した。とくに盧溝橋事件では、支那駐屯歩兵旅団長(少将)だった実兄の正三が現場責任者という皮肉な巡り合わせを経験している。また、作戦課長時代には戦争指導のため出張、中国大陸の部隊を訪れている最中に、戦争拡大を目論む勢力によって浜松陸軍飛行学校教官へ左遷されるという憂き目にあっている。それ以降は、陸軍中央からは遠ざけられており、河辺が再び参謀本部への復帰を果たすのは戦争末期の1945年(昭和20年)に入ってからである。
敗戦後、参謀次長であった河辺中将は連合国と会談するため全権としてマニラに赴いている。その帰路の1945年8月20日、搭乗機が遠州灘沖で遭難し、鮫島海岸(現静岡県磐田市)に不時着したが無事に東京に帰還した[1](詳細は緑十字飛行を参照)。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)参謀2部(G2)部長のチャールズ・ウィロビーに接近し、1948年(昭和23年)、軍事情報部歴史課に特務機関「河辺機関」を結成。辰巳栄一(28期歩兵科)も関わる。河辺機関へのGHQからの援助は1952年(昭和27年)で終了したため、河辺機関の旧軍幹部(佐官級)はG2の推薦を受けて保安隊に入隊している。河辺機関はその後、「睦隣会」に名称変更した後に、内閣調査室のシンクタンクである「世界政経調査会」になった。そのため、初期の内閣調査室には河辺機関出身者が多く流入している[3]。