はまむら じゅん 浜村 純 | |||||
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1962年 | |||||
本名 | 武内 武 | ||||
生年月日 | 1906年2月7日 | ||||
没年月日 | 1995年6月21日(89歳没) | ||||
出生地 | 日本・福岡県糟屋郡宇美町馬場 | ||||
死没地 | 日本・東京都世田谷区 | ||||
職業 | 俳優 | ||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 | ||||
活動期間 | 1933年 - 1995年 | ||||
主な作品 | |||||
映画 『青春残酷物語』(1960年) テレビドラマ 『武田信玄』 『純ちゃんの応援歌』 | |||||
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浜村 純(はまむら じゅん、1906年〈明治39年〉2月7日[1][2][3] - 1995年〈平成7年〉6月21日[2][3])は、日本の俳優。本名:武内 武[1][2]。
福岡県[1]糟屋郡宇美町馬場出身[2]。福岡市立商業学校卒業[1][2]。新倉事務所に所属していた[1]。
戦前は新築地劇団や劇団文化座などに所属して舞台俳優として活動。戦後は映画俳優として、数多くの話題作や名作に出演する。総出演本数は約300本に上る。個性的で幅の広い演技に定評があり、日本映画屈指の名バイプレーヤーとして活躍した。
1906年(明治39年)2月7日、福岡県糟屋郡宇美町馬場に、呉服商の父・伴太郎と母・むめの3男1女の三男として生まれる[4]。宇美尋常高等小学校を経て1926年(大正15年)に福岡市立商業学校を卒業。東京美術学校を受験するが不合格になり、福岡市にある松屋呉服店の店員を務めたのち上京、深川で新聞配達・職工、浅草でクリーニング店の店員などの職に就く[4]。
1932年(昭和7年)、舞台装置家を志してプロレタリア演劇研究所に3期生として入る[4]。同期には宇野重吉がいる。翌1933年(昭和8年)、研究所卒業とともに新築地劇団へ入り、本名で『土』『守銭奴』などの舞台に出演する。1937年(昭和12年)に劇団を退団すると、新協劇団公演『火山灰地』『夜明け前』などに助演する[4]。1938年(昭和13年)、伊丹万作監督の『巨人傳』など数本の映画にエキストラ出演したのち、中国人の演劇指導のため満州の新京に渡る[4]。のちにハルピンに渡り、昼は市公署官吏や不動産会社に勤め、夜は劇団に参加していた。その後帰国し、1944年(昭和19年)に劇団文化座に入って浜村純と改名。文化座の公演で再び満州に渡り、奉天で終戦を迎える[4]。復員後は移動劇団を組織して地方を巡業するが、肺結核に倒れる。
1949年(昭和24年)に児童劇映画『谷間の少女』に出演してからは映画に主力を置いた。
痩せこけた頬とギョロリと目の光る特異な風貌ながら、堅実な演技力で定評を受けた[4]。市川崑の監督作品には計22本に出演しており、大島渚、篠田正浩、今村昌平、浦山桐郎などの作品にも多数出演している。
1995年(平成7年)6月21日、急性白血病のため日産厚生会玉川病院にて死去。89歳没。