『浮世絵類考』(うきよえるいこう)は、江戸時代の浮世絵師の伝記や来歴を記した著作で、浮世絵師の便覧とも言える。浮世絵研究の基本的な史料である。寛政年間に大田南畝が著した原本に、複数の考証家が加筆して成立した。
以下の解説と典拠は仲田勝之助校訂『浮世絵類考』(岩波文庫、1941年)による[1]。
- 寛政2年(1790年)頃、大田南畝が浮世絵師に関する考証を行う[2]。
- 寛政12年(1800年)、笹屋新七(邦教)が系譜を加え、享和2年(1802年)、山東京伝が追考した。
- 文政2 - 4年(1819年 - 1821年)、式亭三馬が補記し、加藤曳尾庵が加筆した。「曳尾庵本」という。37名の浮世絵師が掲載される[3]。ただし、「曳尾庵本」の成立を疑問とする偽書説も提出されている[4]。
- 同年、関根只誠が斎藤月岑の蔵書を写し、補記を書き加えている。「只誠増補本」という。内容は、斎藤月岑の『増補浮世絵類考』、竜田舎秋錦の『新増補浮世絵類考』のどちらとも異なっている。
岩波文庫版の構成は次のとおりである。
- 大和絵師浮世絵之考
- 吾妻錦絵之考
- 岩佐又兵衛以下の各絵師、232名
- 附録 古今大和絵浮世絵の始系
諸本があるため、以下のマークで示している。
- 【増】『増補浮世絵類考』
- 【追】 山東京伝の追校
- 【新】『新増補浮世絵類考』
- 【故】『故法室本』
- 【曳】 曳尾庵本
- 【三】 式亭三馬加筆
一例として写楽の項[1]を引用する。
写楽斎
- 【曳】東洲斎写楽
- 【新】俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也。
これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム。
- 【曳】しかしながら筆力雅趣ありて賞すべし。
- 【三】三馬按、写楽号東周斎、江戸八町堀に住す、はつか半年余行はるゝ而巳。 (以下略)
大田南畝が書いた原文に近いのが「これは歌舞妓役者の(…)一両年に而止ム」の部分である。
中野三敏は『太田南畝全集』「浮世絵考証」の解説[9]で、南畝原撰と思われる部分に、寛政6年から7年が活動期とされる写楽の記事を載せていることから、この部分の成立を寛政7年以降としている[9]。なお、岩波文庫を見るかぎり、南畝原撰部の成立を寛政2年頃とする根拠は明示されておらず、「近来の研究では」と書くのみである。