浮世草子(うきよぞうし)は、江戸時代に生まれた前期近世文学の主要な文芸形式のひとつ。
井原西鶴の『好色一代男』(1682年刊行)以降約100年間、上方を中心に流行した作品である[1][2]。仮名草子よりも娯楽性を強め、当時の風俗や人情の諸相を描いた[1]。浮世草子の呼称は元禄頃から見られる[2]。
浮世草子は5期に大別できる[1][2][3]。第1期は1682年(天和2年)『好色一代男』刊行から西沢一風『風流御前義経記』刊行の前年(1699年)までで、西鶴とその対抗作や追随作が中心である[1]。西鶴と同時期の作家には山八(山本八左衛門)と西村未達がいる[2]。第2期は『風流御前義経記』刊行から『傾城禁短気』(1711年(宝永8年))刊行までで、西沢一風や江島其磧が活躍した[1]。この時期の作家には、都の錦・錦文流・北条団水・青木鷺水・月尋堂がおり、その内容は古典の卑俗化、実際の事件や巷説、町人物などに及ぶ[2]。第3期は1711年(正徳元年)から1735年(享保20年)までで、八文字屋自笑と江島其磧の抗争と和解が起こり、歌舞伎や浄瑠璃の翻案を中心とした時代物が流行した[1]。第4期は其磧没後の1736年(元文元年)から八文字屋が板木を売却する1766年(明和3年)までで、多田南嶺や八文字屋瑞笑が活躍する[1]。第5期は1767年(明和4年)以降から1788年(天明3年)までで、上田秋成(和訳太郎名義)や永井堂亀友、大雅舎其鳳が作品を残すも、江戸中心に新しい文芸活動が起こり、浮世草子は終焉する[1]。最終的には、初期洒落本・読本・談義本などと混淆する形で消滅した[2]。
京都の八文字屋自笑から出版された浮世草子は、特に「八文字屋本(はちもんじやぼん)」と呼ばれ、1701年(元禄14年)前後から1786年(天明8年)辺りまで及んだ[4]。