清成 龍一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2007年 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 |
1982年9月23日(42歳) 埼玉県川越市 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現在のチーム | ホンダ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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清成 龍一(きよなり りゅういち、1982年9月23日 - )は、日本のレーシングライダー(ロードレース)。埼玉県川越市出身。ニックネームは「キヨ(Kiyo)」。
2002年全日本ロードレース選手権ST600チャンピオン。2006年・2007年・2010年ブリティッシュスーパーバイク選手権 (BSB) チャンピオン。2005年・2008年・2010年・2011年鈴鹿8時間耐久ロードレース優勝。
プロライダー育成を目的とする鈴鹿サーキットレーシングスクールジュニア(SRS-J)に入校、全日本ロードレース選手権にデビューする。その後、熊本のホンダ系有力プライベートチーム・チーム高武に加入。同チームは加藤大治郎、玉田誠、宇川徹、中冨伸一、柳川明など世界レベルのトップライダーを輩出している。
全日本ロードレース選手権参戦開始以来2001年まで目立った成績は残せないでいたが、2002年に創設2年目となるST600クラスへの転向を契機に躍進する。開幕から連勝を重ねST600チャンピオンになったほか、最高峰クラス(プロトタイプやスーパーバイク、JSB1000などの混走)にもスポット参戦しTIサーキット英田ではJSB1000優勝を果たした。JSBは市販車同然の最も戦闘力の低いマシンながら、雨のためパワーを持て余すプロトタイプやスーパーバイクのマシンを押さえて総合優勝し、次代のトップライダーとして注目される。
翌2003年4月にスポーツランドSUGOで開催されたスーパースポーツ世界選手権(WSS)日本大会にスポット参戦し2位を獲得。その後、同年日本GPのレース中の事故で亡くなった加藤大治郎の後任としてホンダ・グレシーニレーシングと契約し、ロードレース世界選手権 (MotoGP) に参戦する。
勝てるマシンRC211Vに乗るも、初めてのMotoGPクラス、初めてのサーキットだったことや、テスト不足、サテライトスペックであったこともあり最高位は10位2回と低迷。
2004年はBSBに転向。ここでもなれないサーキットに手こずるが、経験のあるドニントンパークでは2ヒート完全優勝。2005年は全13戦(怪我により出場11戦)26ヒート中12ヒート優勝。最多勝ながらチャンピオンは逃したものの、ランキング2位を獲得。同年の鈴鹿8時間耐久ロードレースでは、ホンダのエース宇川徹と組んで出場し、初優勝を飾る。
BSBの3シーズン目となる2006年、ついにBSBチャンピオンを獲得した。
2007年はディフェンディングチャンピオンとして4年目のシーズンを戦い、2年連続チャンピオンを獲得。また、全日本ロードレース選手権の最終戦にスポット参戦。BSBと同じ2ヒート制でのレースだったが、2レースとも2位以下を大きく引き離す圧勝でシーズンを終える。
2008年はスーパーバイク世界選手権 (SBK) にホンダのトップチームである、テンケイト・ホンダから参戦を開始した。
7月27日に行われた第31回鈴鹿8時間耐久ロードレースでは自身2勝目。清成の序盤でのリード、パートナーカルロス・チェカの急な雨の中での見事な判断などなどで完全勝利、HRCに3年振りとなる勝利をもたらした。
8耐勝利の1週間後ブランズ・ハッチで行われたWSB第10戦イギリス大会ではWSB参戦以来初のダブルウインを達成。次戦ドニントンでも1勝を挙げ、シーズン3勝、シリーズランキング9位でデビューシーズンを終えた。2009年もテンケイト・ホンダに残留し、ランキング11位。
2010年はHM Plant HondaからBSBへ復帰参戦。第4戦キャドウェル・パークで復帰後初勝利を挙げる。続くマロリー・パークでも勝利。3年ぶりの全英王者を狙う。タイトル争いは最終戦までもつれこみ、トップと15ポイント差で挑んだ清成は奇跡的な3連勝でBSB3度目のタイトルを獲得した。
7月には鈴鹿8時間耐久ロードレースにHARC-PROから参戦し、チームメイトの高橋巧と優勝。清成にとっては3度目の鈴鹿8耐優勝となった。
2011年、F.C.C.TSR Hondaより鈴鹿8時間耐久ロードレースに参戦。伊藤真一・秋吉耕佑とともに優勝し、自身4度目の優勝を果たす。
前年シーズンの不調からチームを解雇され、翌年の動向が注目されていたが、2012年はMuSASHi Boon Siew Honda Racingからアジアロードレース選手権のSS600クラスへ参戦した。
第2戦インドネシアでダブルウィンを果たすと、第5戦の台湾でもダブルウィンを達成。最終戦カタールのレース2優勝と5勝を達成し、その他レースでも上位入賞した事で、前年チャンピオンの藤原克昭を抑えてシリーズチャンピオンを獲得した。
7月にはHARC-PROから高橋巧、青山博一とともに鈴鹿8時間耐久レースに参戦。宇川徹の持つ最多優勝記録(5勝)に並ぶことを目指したが、デグナーコーナーで清成が転倒し、マシンから漏れたガソリンに引火しマシンが炎上。消火後マシンをピットまで戻し、スタッフの必死の修復作業で終了1時間前に修理が終わり、コース復帰したものの50周遅れの41位という結果となった。
2013年はSamsung HondaよりBSBへ再び復帰して参戦。第4戦ノックヒルで2レースとも3位に入り、再復帰後初表彰台を獲得した。
7月には鈴鹿8時間耐久レースに、ジョナサン・レイをパートナーに、F.C.C.TSRより参戦し、最多優勝記録タイに再び挑戦。スタートで出遅れたもののトップに立ち独走態勢に入ったものの、前年同様にデグナーコーナーで転倒しマシンが大破してしまう。ピットまで何とか戻るものの、修復が不可能なほどのダメージだった事から修復を断念しリタイアとなった。
2013年12月にHRCは、モトGPマシンのホンダ・RC213Vのテストライダーとしてオファーしたが、BSB参戦継続を望む清成は移籍を決断し[1]、BMWへの移籍を発表。
2014年は新たなチャレンジの年となった。シリーズ第4戦ノックヒルにて、BMWにとってのBSB初表彰台を優勝でプレゼント。その後、7勝を挙げ、BSB通算50勝を達成した。最終戦までタイトル争いを演じ、ランキング2位でシーズンを終えた。
2015年もBuildbase BMWからBSBにフル参戦。ファクトリーサポートを失ったチームで苦労をし、ランキング20位でシーズンを終えた。
2016年、BSB参戦10年目にスズキへ移籍し、Bennetts Suzukiチームより参戦。シーズン開始当初から苦戦し、第7戦でチームを離脱。第9戦でSmith Racing (BMW) に移籍をし、シーズンを20位で終了した。
2016年シーズン終了後、2017年シーズンをMORIWAKI MOTUL RACINGと契約したことを発表。15年ぶりの全日本ロードレース選手権復帰となった。また4年ぶりのホンダ復帰ともなった。チームは9年ぶりの鈴鹿8耐復帰も同時に発表をした。
2018年も継続して同チームから継続参戦をしている。
2019年1月、清成はモリワキとイタリアのアルティア・レーシングの合同チーム「Moriwaki Althea Honda Team」と契約したことを発表。10年ぶりにSBKへのレギュラー参戦復帰を果たす。
2020年から伊藤真一が監督を務める「Keihin Honda Dream SI Racing 」に所属し、JSB1000クラスに復帰した。2020年ランキング2位、2021年はランキング3位を獲得。2022年からはTOHORacingに移籍した。