基本情報 | |
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本名 | 渡嘉敷 勝男 |
通称 | ヤンバルクイナ、トカちゃん |
階級 | ジュニアフライ級 |
身長 | 156.4cm |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1960年7月27日(64歳) |
出身地 | 兵庫県宝塚市 沖縄県コザ市(現・沖縄市)出生、[1] |
スタイル | ディフェンディングタイプ |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 25 |
勝ち | 19 |
KO勝ち | 4 |
敗け | 4 |
引き分け | 2 |
渡嘉敷 勝男 | |
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YouTube | |
チャンネル | |
活動期間 | 2017年9月25日 - |
ジャンル | スポーツ |
登録者数 | 2.98万人 |
総再生回数 | 847万回 |
チャンネル登録者数・総再生回数は 2022年5月27日時点。 |
とかしき かつお 渡嘉敷 勝男 | |
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本名 | 渡嘉敷 勝男(とかしき かつお)[2] |
生年月日 | 1960年7月27日(64歳) |
出生地 | 沖縄県コザ市(現・沖縄市)[1] |
国籍 | 日本 |
身長 | 156.4cm |
ジャンル | バラエティ |
活動期間 | 1985年 - |
活動内容 | タレント |
配偶者 | あり |
事務所 | 渡嘉敷勝男エンターテインメント |
主な作品 | |
痛快なりゆき番組 風雲!たけし城 平成教育委員会 |
渡嘉敷 勝男(とかしき かつお、男性、1960年7月27日 - )は、日本の俳優、テレビタレント、YouTuber、元プロボクサー、元WBA世界ライトフライ級王者。現役時代は協栄ボクシングジムに所属。沖縄県コザ市(現・沖縄市)出生[1]、兵庫県宝塚市出身。
沖縄市生まれだが、親の仕事の関係で乳児時代に兵庫県宝塚市に住居を移転したため、同市で高校までを過ごした。浪速工業高等学校中退。
現役時代の代名詞は“ヤンバルクイナ”。タレント転向後は「トカちゃん」という愛称の方が知られている。
高校時代は喧嘩に明け暮れる不良少年であった[3]。
1977年1月30日、テレビでWBA世界ライトフライ級タイトルマッチ具志堅用高対ハイメ・リオス(パナマ)を観たことがきっかけでボクシングを始めようと思い立つ。
浪速工業高校中退後、単身で上京し、プロボクサーになるべく協栄ボクシングジムに入門。
1980年2月21日、全日本ライトフライ級新人王獲得。
1981年12月16日、世界初挑戦。金煥珍(韓国)を15回判定に降し、WBA世界ライトフライ級王座獲得[1]。同王座は具志堅が3月に14度目の防衛戦で敗れ、手放していたもので、渡嘉敷にとっては9か月前の先輩の無念を晴らす形となった。同王座はルペ・マデラ(メキシコ、2度)、伊波政春(日本)、金成南(韓国)、金煥珍相手に5度の防衛に成功するが[1]、1983年7月10日、6度目の防衛戦でルペ・マデラに4回負傷判定(当時はTKOと記録された)で敗れ、王座から陥落した[1]。10月23日にマデラと再戦するが、15回判定負けで王座返り咲きならず[1]。
1984年8月18日、敵地でWBC世界ライトフライ級王者張正九(韓国)に挑戦するが、9回TKOに敗れ、王座返り咲きならず[1]。結局、この試合を最後に現役を引退。
ボクサー引退後、役者を志し俳優養成学校へ入学。きっかけは、現役時代にフジテレビの正月恒例番組「新春かくし芸大会」に出演したことがあり、その時に「ボクシングが出来ない体の状態になったら、この世界(芸能界)が夢があって面白そうだな。」と直感したことに由来している。養成学校では歌手の卵やアイドルの卵と言った若い芸能界志望の生徒に混ざり、基礎的なダンスや発声練習などを受講していた。役者として仕事がしたかったが、あるテレビ関係者に「今はドラマが減って、バラエティ番組の時代になっている。」と「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」(TBS)への出演を紹介された。そこで、「人食い穴」の落とし穴に落ちた一般参加者を怖がらせる役回りをビートたけしに気に入られたのを機に[5]、「たけし・逸見の平成教育委員会」(フジテレビ)などにレギュラー出演。「平成教育委員会」では毎回のように珍解答を連発し、多くの視聴者・出演者に笑いを提供し番組を盛り上げていた(中にはわざと間違えたり、ありえないような解答も出していた)。
1987年、プロボクサーのライセンス取得を熱望していたタレントの片岡鶴太郎に、古巣に当たる協栄ジムを紹介したのも渡嘉敷であった。当時、鶴太郎とはテレビ番組で共演しており、渡嘉敷はその橋渡し役を買って出ていた。
東京都中野区に「渡嘉敷ボクシングジム」を開設(実際のオープンが1997年10月、1996年6月東日本ボクシング協会で世界王者経験者に加盟金300万円を設ける直前に加盟しJBCクラブオーナーライセンス取得)。同ジム会長として後進の指導に当たっている。ジムを開設してからは、後進の育成に力を入れるようになっており、2010年代以後はテレビタレントとしての出演は減っている。
JBC・東日本協会が女子プロボクシング開始前に自身のジムの会員丸山礼子を山木ジム所属選手としてマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟の興行内で国際式ルールの試合に出場させたが菊川未紀に惨敗。自身も山木ジムを主管とする日本女子ボクシング協会の興行でリングアナウンサーを務めた。
2006年11月、元世界王者の輪島功一、玉熊幸人、飯田覚士、戸高秀樹らとともに、袴田事件の再審を求める要請書を、最高裁判所に提出。元ボクサー袴田巌の無罪獲得のため活動を続けている。
戦 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 |
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1 | 1978年12月28日 | ○ | 4R | 判定 | 浜田信男(帝拳) | 日本 | プロデビュー戦 |
2 | 1979年1月26日 | ○ | 4R | 判定 | 近藤清(中村大月) | 日本 | |
3 | 1979年2月23日 | ○ | 4R | 判定 | 柏葉晋(角海老) | 日本 | |
4 | 1979年6月5日 | ○ | 4R | 判定 | 清原治(角海老) | 日本 | |
5 | 1979年7月12日 | 引分 | 4R | 判定 | 佐藤勝美(内野) | 日本 | |
6 | 1979年10月13日 | ○ | 4R | 判定 | 太田淳一(新日本木村) | 日本 | |
7 | 1979年11月12日 | ○ | 4R | 判定 | 戸田直次郎(松戸平沼) | 日本 | |
8 | 1979年12月23日 | ○ | 6R | 判定 | 仲宗根 正訓(角海老) | 日本 | |
9 | 1980年2月21日 | ○ | 6R | 判定 | 伊藤富士男(堀内) | 日本 | 全日本ライトフライ級新人王決定戦 |
10 | 1980年6月14日 | ● | 6R | 判定 | パク・チョル | 韓国 | |
11 | 1980年8月30日 | ○ | 8R | 判定 | 伊礼 学(角海老) | 日本 | |
12 | 1980年11月12日 | ○ | 9R | KO | フェニックス谷口(平和) | 日本 | |
13 | 1981年3月8日 | ○ | 10R | 判定 | 奥本利弘(緑) | 日本 | |
14 | 1981年6月2日 | ○ | 10R | 判定 | キム・ヨンヒョン | 韓国 | |
15 | 1981年10月19日 | ○ | 10R | KO | 奥本利弘(緑) | 日本 | |
16 | 1981年12月16日 | ○ | 15R | 判定 3-0 | 金煥珍 | 韓国 | WBA世界ライトフライ級タイトルマッチ |
17 | 1982年4月4日 | ○ | 15R | 判定 2-1 | ルペ・マデラ | メキシコ | WBA防衛1 |
18 | 1982年7月7日 | ○ | 8R | TKO | 伊波政春(協栄河合) | 日本 | WBA防衛2 |
19 | 1982年10月10日 | ○ | 15R | 判定 3-0 | 金成南 | 韓国 | WBA防衛3 |
20 | 1983年1月9日 | ○ | 15R | 判定 3-0 | 金煥珍 | 韓国 | WBA防衛4 |
21 | 1983年4月10日 | 引分 | 15R | 判定 1-1 | ルペ・マデラ | メキシコ | WBA防衛5 |
22 | 1983年7月10日 | ● | 4R | 負傷判定 0-3 | ルペ・マデラ | メキシコ | 陥落 |
23 | 1983年10月23日 | ● | 15R | 判定 0-3 | ルペ・マデラ | メキシコ | WBA世界ライトフライ級タイトルマッチ |
24 | 1984年3月8日 | ○ | 6R | KO | 榊原隆史(金子) | 日本 | |
25 | 1984年8月18日 | ● | 9R | TKO | 張正九 | 韓国 | WBC世界ライトフライ級タイトルマッチ |
テンプレート |
前王者 金煥珍 |
WBA世界ライトフライ級王者 1981年12月16日 - 1983年7月10日 |
次王者 ルペ・マデラ |