時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 長和5年(1016年) |
死没 | 永長2年閏1月6日(1097年2月20日) |
別名 | 桂大納言[1] |
官位 | 正二位、大納言 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇 |
氏族 | 宇多源氏 |
父母 | 父:源道方、母:源国盛の娘 |
兄弟 | 経長、経信、経親、経隆、円信 |
妻 | 源貞亮の娘 |
子 | 道時、基綱、俊頼、信証 |
源 経信(みなもと の つねのぶ)は、平安時代後期の公家・歌人。宇多源氏、権中納言・源道方の六男[1]。官位は正二位・大納言。桂大納言と号す。小倉百人一首では大納言経信。
後一条朝の長元3年(1030年)従五位下に叙爵し、長元6年(1033年)三河権守に任官する。その後、後朱雀朝から後冷泉朝前半にかけて刑部少輔・少納言・左馬頭等を歴任、この間、長久3年(1042年)従四位下、永承8年(1053年)正四位下と昇進している。
康平5年(1062年)右中弁に抜擢されると、康平6年(1063年)権左中弁、康平8年(1065年)蔵人頭兼右大弁と弁官として順調に昇任され、後冷泉朝末の治暦3年(1067年)参議として公卿に列した。
参議昇進後も引き続き弁官を兼帯する一方、中宮権大夫として後三条天皇中宮の馨子内親王に仕え、この間の治暦5年(1069年)従三位、延久3年(1071年)正三位、延久4年(1072年)従二位と昇叙される。白河朝の承保2年(1075年)権中納言に昇進するが、皇后宮権大夫を兼ねて引き続き馨子内親王に仕えた。
その後、承保4年(1077年)正二位、永保3年(1083年)権大納言と昇進を続け、寛治5年(1091年)大納言に至る。この間も皇后宮大夫として馨子内親王に仕えたほか、民部卿も兼ねた。寛治7年(1093年)20年以上に亘って仕えた馨子内親王が没すると、翌寛治8年(1094年)79歳にして大宰権帥に任ぜられ、嘉保2年(1095年)大宰府に下向。永長2年(1097年)閏正月6日に任地で薨去。享年82。
詩歌・管絃に秀で、有職故実にも通じ、その多芸多才は藤原公任に比較された[要出典]。長久2年(1041年)の「祐子内親王家名所歌合」をはじめとして[要出典]、多くの歌合に参加している。
白河天皇から重用されたが、その近臣である藤原通俊とは政治的にも歌壇的にも対立した[1]。当代一の歌人とされたが、経信をさしおいて藤原通俊が撰集した『後拾遺和歌集』に対して『後拾遺問答』『難後拾遺』を著してこれを批判した[1]。
『後拾遺和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に85首が入集[1]。その歌風は歌題を正確に把握し、平明な表現で優れた声調を獲得しようとしたものであった[1]。家集に『大納言経信集』[1]があり、日記に『帥記』がある[1]。
経信が京の八条あたりに住んでいた頃、九月の月明かりを眺めて物思いにふけっていると、微かに砧の音が聞こえてきたので、
と歌を口ずさんだ。すると、前栽の方から
と漢詩を詠む声が聞こえる。「このような素晴らしい声で詠んだのは、誰だろう」と声のする方に目を向けると、髪の毛は逆立ち、身の丈が一丈五・六尺はあろうかという異形の者が立っていた。経信が思わず八幡大菩薩に助けを求めると、異形の者は「どうして祟りなどするものか」と言って、姿を消した。声の主は朱雀門の鬼だったのだろうか。(『撰集抄』巻八)
なお、本項目の右側にある浮世絵の画像2点(月岡芳年『月百姿』・歌川国芳『百人一首之内』)は、いずれもこの逸話を題材にしている。
『公卿補任』による。