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潜水艦イ-57降伏せず | |
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監督 | 松林宗恵 |
脚本 | |
出演者 | |
音楽 | 團伊玖磨 |
撮影 | 完倉泰一 |
編集 | 黒岩義民 |
製作会社 | 東宝[1] |
配給 | 東宝[1][2] |
公開 |
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上映時間 | 103分[1][注釈 1] |
製作国 |
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言語 | 日本語 |
『潜水艦イ-57降伏せず』(せんすいかんイのごじゅうななこうふくせず)は、東宝が製作し、1959年(昭和34年)7月5日に封切り公開した戦争映画[3]。白黒、東宝スコープ、パースペクタ・ステレオフォニック・サウンド[1][3]。
東宝初のシネマスコープサイズで制作された戦争映画[2]。また、監督の松林宗恵と特技監督の円谷英二が初めて組んだ作品でもある[2]。
日本の戦争映画としては珍しい隠密行動を主題とした作品である[5]。従来の戦争映画のような悲壮感のある作風ではなく、冒険映画としての娯楽性も備えている[6]。一方で、国家に裏切られた前線の兵士たちの無念さや憤りを描いた作品としても評価されている[6]。
海軍出身の松林は、海軍という独特の世界を描くにあたり、何気ない所作や軍装の細部に当たるまで神経を使ったといい、それでもやはり当時の完全再現には至らなかったことを悔やんでいる。艦上撮影に当たっては海上自衛隊の協力を受け、当時日本で唯一の潜水艦「くろしお」[注釈 2]を使用し、百数十人の撮影スタッフが危険な海上撮影を敢行した[6]。また、海上自衛隊はくす型護衛艦や護衛艦わかばのほか、駆逐艦や内火艇など、草創期の海上自衛隊艦艇を多数出動させ、撮影に協力している。
1945年(昭和20年)6月、太平洋戦争にて敗戦濃厚となった大日本帝国海軍において最前線に従軍していた潜水艦「イ-57」は突如ペナン州への寄港を命ぜられ、某国の外交官父娘を中立国であるスペイン領カナリー諸島まで輸送する任務を負った。これは早期講和を目指す大本営の秘密工作であり、艦長以下の反対も派遣された参謀の説得によって収まったが、外交官父娘の正体は下士官兵には知らされないままであった。「イ-57」は大西洋を目指し、インド洋を潜行する。途中、敵の駆逐艦による攻撃などにも耐え、ようやく喜望峰沖まで達した時、連合国はポツダム宣言を発表し、「イ-57」の航海はその意味を失った。
特撮については、撮影のために手前が深く造られた小プールが用意され、サンゴや岩場を配置した海底が再現された[出典 2]。このプールの側面には撮影用の小窓が設けられ、魚雷の発射や海底から見た水面描写など、鮮やかな映像の数々が撮影された。イ号をはじめ、各種船舶も20尺(約7メートル)を超える[要出典]大型のミニチュアが用意されたほか、イ号は艦首だけのものや実物大のブリッジも制作され、迫力のある海戦シーンが織り込まれている[6]。
円谷は、本作品の合成カットの精度を高めるため、白黒作品ながらブルーバック合成を導入した[6][8]。合成画面用にカラーフィルムが使われており[出典 2]、特撮助監督を務めた中野昭慶は「白黒なのにカラーフィルムを使うので不思議に思った」と述懐している[出典 3]。この異例の撮影技法には、東宝本社からも「なんでそんなに大量のカラーフィルムがいるんだ」との文句が出たが、カラーフィルムをモノクロに変換するというこの手法により、ラストでの艦上の隊員、これを覆う水柱など、より明るくクリアでシャープな画像が実現されることとなった[出典 2]。
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