基本情報 | |
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生誕 |
1879年8月24日 日本 東京府東京市芝区南佐久間町(現:東京都港区西新橋) |
出身地 | 日本 大分県直入郡竹田町(現:大分県竹田市) |
死没 |
1903年6月29日(23歳没) 日本 大分県大分市稲荷町(現:大分県大分市府内町) |
学歴 | 東京音楽学校(現:東京芸術大学) |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | ピアノ |
活動期間 | 1896年 - 1903年 |
瀧 廉太郎(たき れんたろう、1879年(明治12年)8月24日 - 1903年(明治36年)6月29日)は、日本の音楽家・ピアニスト・作曲家。
明治期における西洋音楽黎明期の代表的な音楽家の一人で、歌唱共通教材として「荒城の月」が知られている。戸籍名では旧字体の「瀧」を用いるが、現代の教科書などでは新字体の「滝」でも表記される[1]。
1879年(明治12年)8月24日に、旧・日出藩士(現:大分県速見郡日出町)の瀧吉弘の長男として東京府芝区南佐久間町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋)に生まれた[2]。両親は吉弘と正子で、瀧家は江戸時代に豊後国日出藩の家老職を代々務めたいわゆる上級武士の家柄である[注釈 1]。父・吉弘も日出藩の家老で1872年(明治5年)に上京し、大蔵省から内務省に転じて大久保利通・伊藤博文らの下で内務官僚として勤務したのち、地方官として神奈川県・富山県を経て大分県竹田市に移り住んだ[4]。
廉太郎は1886年(明治19年)5月に神奈川県師範学校附属小学校に入学する。同年9月に父・吉弘の転勤によって富山県尋常師範学校附属小学校に転校し、1888年(明治21年)5月には麹町尋常小学校へ転校し、1890年(明治23年)に卒業した[5]。当時の廉太郎は色白で背が高く都会的な少年で、卒業時にはピアノを演奏したと伝えられているが、曲名などは不明である。廉太郎には2人の姉がおり、ヴァイオリンやアコーディオンを習得していた際に姉が所有していたヴァイオリンに大きな興味を示し、自ら手に取って弾いていたとも伝わる[4]。
その後、廉太郎は故郷・大分県の大分県尋常師範学校附属小学校高等科に入学したが、再び父の転勤によって直入郡にある、旧岡藩の藩校由学館跡に建てられた高等小学校(現:竹田市立竹田小学校)へ転校した。廉太郎は当時アコーディオンを弾いていたが、同校ではオルガンを弾くようになる[5]。1894年(明治27年)4月に卒業後は再び上京し、東京音楽学校(現:東京芸術大学)へ入学してピアノを橘糸重、遠山甲子に学ぶ[6]。1898年(明治31年)に本科を卒業[7]した後は研究科に進むと同時に東京音楽学校の嘱託教師を命じられ[4]、ピアノ科教師として勤務しながら作曲とピアノ演奏において才能を伸ばしていった。廉太郎は1899年(明治32年)に東京市麹町区上二番町に移り住み、後述の博愛教会は近隣に位置していた[4]。
1900年(明治33年)10月7日には東京市麹町区上五番町(現:東京都千代田区)にあった聖公会グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で立教大学初代学長を務めた元田作之進から洗礼を受けてクリスチャンとなり、10月28日にはジョン・マキムから堅信礼を受けた[4][8][9][10]。
翻訳唱歌は明治時代の前半には既に多くの作品が発表されていたが、その大半は間違えた翻訳、または他の無関係な歌詞を当てはめるなどといったように日本語訳詞を無理にはめ込んだ「ぎこちない歌」が多く、日本人作曲家によるオリジナルの唱歌を望む声が高まっていた[4]。廉太郎の代表作である「荒城の月」は、箱根八里と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された[4]。また、廉太郎のもう一つの作品で人気の高い「花」は、1900年(明治33年)8月に作曲された4つの曲からなる組曲「四季」の第1曲[11]で、「お正月」「鳩ぽっぽ[12]」「雪やこんこん[13]」などは幼稚園唱歌に収められた。さらに「荒城の月」はベルギーで讃美歌(聖歌)に選ばれたことも判明している[10]。
ピアニストとしての廉太郎はラファエル・フォン・ケーベルに師事し、その影響を大きく受けてドイツ音楽を至上とする奏法を貫いていた[4]。
1901年(明治34年)4月6日、日本人の音楽家では史上3人目となるヨーロッパ留学生として出国し、5月18日にドイツ帝国・ベルリンに到着し、同地で日本語教師を務めていた文学者の巖谷小波やヴァイオリニストの幸田幸、さらに海軍軍楽隊から派遣され、のちに「君が代行進曲」を作曲するクラリネット奏者の吉本光蔵と交友を持ち、共に室内楽を演奏した[4]。廉太郎はさらにライプツィヒへ向かい、ライプツィヒ音楽院(フェリックス・メンデルスゾーンが設立し、カール・ライネッケが学院長を務める)に入学し、廉太郎は文部省外国留学生としてロベルト・タイヒミュラーにピアノを、ザーロモン・ヤーダスゾーンに作曲や音楽理論を学ぶ[14][15]。
しかし、入学から僅か5ヶ月後の同年11月に肺結核を発病する。オペラを観劇した帰りに体調不良を訴え、風邪の症状から聖ヤコブ病院へ入院後に結核に感染していることが判明した。入院治療を続けるも回復の見込みがなく、廉太郎は退学、帰国を余儀なくされた[4]。なお入院から程なく1902年(明治35年)2月に恩師ヤーダスゾーンが世を去っている。
廉太郎は諸手続きを済ませ、1902年(明治35年)7月10日にドイツを発ち、ロンドンを経由して同年10月17日に横浜に到着した[16][17]。帰国直後は東京の従兄である大吉の自宅で療養し、大吉が40歳の若さで逝去すると父・吉弘の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)6月29日17時に大分県大分市稲荷町339番地(現:大分市府内町)の自宅にて死去した[4]。満23歳没(享年25)。結核に感染していたことから、多くの作品は死後に焼却処分されたという[4]。一部の資料などでは廉太郎の作曲数については多かったとされているが、2022年現在においてその存在が確認されているものは34曲と決して多くない(編曲作品もいくらか現存する)[4]。
瀧家の墓所は日出町の龍泉寺である[18]が、廉太郎は父と親交のあった大分市金池町の万寿寺に葬られた。戒名は直心正廉居士。但し彼個人は聖公会の教会に属したキリスト教徒であった。
2011年(平成23年)3月、廉太郎の墓は、親族らの意向により万寿寺から先祖の眠る龍泉寺へと移設された[19]。龍泉寺には、廉太郎がドイツ留学時に愛用していた火鉢が残されている。
2019年(平成31年)2月、廉太郎が書いたとされる手紙や譜面、写真など200点以上もの史料が竹田市に寄贈された[20][21]。
歌曲に有名な作品が多い瀧だが、1900年(明治33年)には日本人作曲家による初めてのピアノ独奏曲「メヌエット」を作曲している。肺結核が悪化して死期が近いことを悟った時、死の4ヶ月前に作曲したピアノ曲「憾(うらみ)」が最後の作品として残された。この2つを除いて、全て声楽作品である。
また、作品の一部は鉄道に関する音楽にも採用されている。代表作の「荒城の月」はJR九州豊後竹田駅の列車到着時におけるメロディーとして採用され、「箱根八里」は小田急箱根の発車メロディに使用されている。「花」は東京メトロ銀座線浅草駅の発車メロディーに「ご当地メロディー」として使用されているほか、かつては東北新幹線・上越新幹線の上野駅到着・発車時の車内チャイム(通称「ふるさとチャイム)として使用されていたが、東京駅延伸開業後は使用されていない。
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その他に他の作曲家の作品の編曲も存在する。 |