無門慧開 | |
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淳熙10年 - 景定元年4月7日 (1183年 - 1260年5月18日) | |
諡号 | 仏眼禅師 |
生地 | 杭州銭塘県良渚[1][2] |
没地 | 杭州 |
宗派 | 臨済宗楊岐派 |
寺院 | 平江府万寿寺、護国仁王寺 |
師 | 月林師観 |
弟子 | 心地覚心 |
著作 | 『無門関』(公案集) |
無門慧開(むもん えかい、英: Wumen Huikai)は、南宋の臨済宗の僧[3]。俗姓は梁[2]。勅号は仏眼禅師[3]で、宮中で雨乞いの祈祷をし、その功で号を賜わった[4]。
淳熙10年(1183年)、杭州銭塘県良渚の出身[3]。はじめ南高峯の石室にのぼって6年修行し、省発するところがあり、遍く江湖地方に参じ[1]、平江府万寿寺において臨済宗楊岐派の祖師月林師観(1143-1217)に参じ、趙州無字(狗子仏性)の公案によって大悟する[2]。その後、慈懿皇后のために功徳報因佑慈禅寺という官寺の住持となり[5]、紹定2年(1229年)に47歳の時、『無門関』を著して理宗皇帝に献上した[1]。また、江西と浙江の各地に法を伝えたが、南宋末期に士大夫の参禅が相次いだことをうけ、淳祐6年(1246年)に理宗の勅命により臨安に参禅道場の護国仁王寺を開いた[2][6][7]。景定元年4月7日(1260年5月18日)、78歳で示寂[1]。
弟子には、日本からの入宋僧心地覚心(法燈国師)がおり[2]、普化宗を開いた[8]。
無門慧開は、看話禅(公案禅)の大成者であり楊岐3世[2]である五祖法演の六世の法孫にあたる。五祖下の暗号密令といわれる公案の中でも最も有名な趙州無字の公案を初関として、紹定元年(1228年)に福州龍翔寺において、48則の公案を集めた禅宗の公案集『無門関』を編んだ[9][7]。