照屋 寛徳 てるや かんとく | |
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生年月日 | 1945年7月24日 |
出生地 | 南洋諸島(現 北マリアナ諸島)、サイパン島 |
没年月日 | 2022年4月15日(76歳没) |
死没地 | 日本、沖縄県中頭郡西原町 |
出身校 | 琉球大学法文学部 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 |
(無所属→) 社会民主党 |
称号 | 法政学士 |
子女 | 長男・照屋大河(沖縄県議会議員) |
公式サイト | テルヤ寛徳 |
選挙区 | 沖縄2区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 2003年11月10日 - 2021年10月14日 |
選挙区 | 沖縄県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1995年7月23日 - 2001年7月22日 |
選挙区 | 宜野湾市選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1988年 - 1995年 |
照屋 寛徳(てるや かんとく、1945年7月24日 - 2022年4月15日)は、日本の政治家、弁護士(登録番号:13361)。衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)、社会民主党副党首、同国会対策委員長(第9代)、沖縄県議会議員(2期)などを歴任した。
沖縄国際大学名誉教授の照屋寛之は本家筋にあたり、親戚である。
サイパン島の米軍捕虜収容所で生まれる[1]。父、照屋寛栄は沖縄からの出稼ぎ労働者で、当時収容所で、死体片付け人として働いていた。1968年、琉球大学法文学部を卒業。1972年、司法修習を終え弁護士登録。
1988年、沖縄県議会議員選挙に無所属(日本社会党推薦)で出馬し、当選。2期目の任期途中に辞職し、1995年の第17回参議院議員通常選挙に無所属(社会、公明、沖縄社会大衆党推薦)で出馬。保守系無所属の大城真順を破り、初当選した。2001年の第19回参議院議員通常選挙では自由民主党の西銘順志郎に敗れ、落選。その後、社会民主党に入党。
2003年、第43回衆議院議員総選挙に沖縄2区から社民党公認で出馬し、当選。44、45回の総選挙でも沖縄2区で当選を重ねた。2010年、社民党国会対策委員長に就任。福島瑞穂党首の4選後、照屋の党幹事長への起用が持ち上がったが、照屋が社民党歴の浅さを理由に辞退している。
2012年の第46回衆議院議員総選挙では、同党からの全立候補者の中で唯一選挙区で当選した。
2013年2月25日に社民党、共産党、生活の党と無所属の沖縄県選出、出身国会議員5名で、「うりずんの会」を立ち上げ、会長に就任した[2]。
同年7月21日、第23回参議院議員通常選挙の開票後、山城博治を当選させられなかったことの責任を取り、国対委員長辞任を表明したが、留任した[3]。同年11月1日、全国代表者会議で国会対策委員長に再任された。
2014年の第47回衆議院議員総選挙でも沖縄2区で当選し5選。翁長雄志沖縄県知事を支持する「オール沖縄」の統一候補として出馬した。2017年の第48回衆議院議員総選挙でも沖縄2区で当選し6選。
2019年9月、次期衆院選に出馬しない意向を示した[4]。2020年1月13日、北中城村長(当時)の新垣邦男に「バトンタッチしたい」と表明した[5]。
社民党は、2020年11月14日に東京都内で臨時党大会を開き、立憲民主党への合流を希望する党員・地方組織の離党を容認する議案を賛成多数で可決し、分裂が確定的となった。国会議員4人のうち合流に反対していたのは福島瑞穂党首のみで、照屋を含む3人の去就が焦点となっていたが、議案可決後、照屋は「現段階では考えていない」と早期の離党を否定[6]。12月4日には後継候補の新垣が社民党に残留する意向を示していることから、照屋も残留する意向を固めたと報じられた[7]。2021年10月14日の衆議院解散に伴い政界を引退。
その後病気療養中だったが、2022年4月15日午後、胃癌により沖縄県中頭郡西原町の病院で死去。76歳没[8]。
党職 | ||
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先代 辻元清美 |
社会民主党国会対策委員長 第9代 : 2010年 - 2020年 |
次代 吉川元 |
先代 中西績介 渕上貞雄 東門美津子 |
社会民主党副党首 渕上貞雄と共同 2003年 - 2007年 |
次代 渕上貞雄 又市征治 |