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熊久保信重 | |
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基本情報 | |
国籍 |
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生年月日 | 1970年2月10日(55歳) |
出身地 |
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過去参加シリーズ | |
2001-2015 2019, 2021 2016- |
D1グランプリ フォーミュラ・ドリフト ジャパン 全日本ダートトライアル選手権 |
選手権タイトル | |
2006, 2012 | D1グランプリ |
熊久保 信重(くまくぼ のぶしげ、1970年2月10日 - )は、福島県二本松市出身のレーシングドライバー、エビスサーキット支配人。D1グランプリなどのドリフト競技で活躍し、近年はダートトライアルにも参戦している。血液型O型。父は東北サファリパークの創業者、熊久保勅夫。日本大学東北高等学校卒業。主な愛称は「支配人」「クマ」など。
福島県二本松市出身。日本大学東北高等学校卒業後日本大学工学部に進む[注釈 1]。
小学生の頃から、父が所有していたダートラのコース(現在のエビスサーキット)でモトクロスを始める。のちに全日本選手権まで上り詰めるが、怪我をしたことや成績が伸び悩んだことから、20歳過ぎの頃に参戦を止める[1][2]。
23歳の時にエビスサーキットに入社する。当初はドリフトにはまったく興味が無く、サーキットでドリフトをした車両にブラックフラッグを振ったこともある。しかし古口美範がブラックフラッグを振られているにもかかわらず、ドリフトの練習をやめることを一切しなかったため、次第に熊久保も「まわりをよく見て、迷惑がかからないようにやってくれれば」と態度を軟化させていった。そして従業員仲間にドリフト経験者がいると聞いた熊久保は、方法を一通り教わり実践してみると、モトクロスでの経験も手伝ってすぐにできるようになったという[1][2]。のちに「会社としても利益になる」としてドリフトに力を入れることになり、従業員や古口、そして彼と同郷の平岡英郎らとともに「Team K style with Rapid」を結成。『CARBOY』のドリフトコンテスト(この際「サーキットを無料で貸すので参加させてほしい」とバーター取引を持ちかけている)で優勝したのを期に[3]、いかす走り屋チーム天国東北大会において団体戦優勝を果たすなど、今日の活動へと繋がっている。
D1GPには初年度から参戦。当初はチェイサー(JZX100)を使用していた。2005年にはD1史上初の四輪駆動車をFR化したマシンであるインプレッサ(GDB)を投入した。
自身が働く会社が所有するサーキットながら、エビスサーキットを「最も苦手」と評してきたが、2006年のD1GP第5戦で初優勝を遂げる。さらに同年は野村謙とのタイトル争いを最終戦で制し、初のシリーズチャンピオンに輝いた。4ドア車を駆る選手としては史上初のチャンピオンでもある。
2007年、マシンをFR化した三菱・ランサーエボリューションIXに変更。開幕戦エビスでは昨年に引き続き優勝を果たした。さらに2009年、ランサーエボリューションX(CZ4A)に乗り換えた。
2011年、マシンをローレル(C33)に変更。2012年には斎藤太吾、川畑真人とのタイトル争いを最終戦で制し、人生二度目のシリーズチャンピオンとなる。しかしその後はなかなか上位に食い込むことが出来なくなる。
2014年、マシンをシルビア(S15)に変更。2015年にはD1第3戦筑波で久々の追走進出を果たした。なお同年Euro V8 Series仕様のメルセデス・ベンツ・C63をベースにしたD1車両を製作中であることをビデオオプション内で明かしていたが[4]、結局実戦投入されることはなかった。
2016年以降は戦いの場をD1からダートラに移し、トヨタ・86で全日本ダートトライアル選手権に参戦。参戦2戦目にして3位入賞を果たすなど実力を発揮する[5]。翌2017年はD1時代に使用した日産・シルビア(S15)に車両を変更した。
2019年、開幕前に開催されたD1GPオールスターシュートアウトで、昨シーズンをもって引退した野村謙とスペシャルマッチの追走を披露した[6]。
2019年と2021年にはフォーミュラ・ドリフト ジャパンにも参戦し、2021年第6戦富士では優勝を果たしている[7]。
近年はタイのドリフト競技大会に参戦していたが、2022年シーズンをもって引退した[8]。2024年はD1GPにおけるビデオオプションでの中継の解説者を務める。
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