王世杰 | |
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1941年2月、重慶にて | |
プロフィール | |
出生: |
1891年3月10日 (光緒17年2月初1日) |
死去: |
1981年(民国70年)4月21日 中華民国 台北市 |
出身地: |
清 湖北省武昌府崇陽県 (現:咸寧市崇陽県) |
職業: | 政治家・法学者 |
各種表記 | |
繁体字: | 王世杰 |
簡体字: | 王世杰 |
拼音: | Wáng Shìjié |
ラテン字: | Wang Shih-Chieh |
和名表記: | おう せいけつ |
発音転記: | ワン シージェ |
王 世杰(おう せいけつ)は、中華民国(台湾)の政治家・法学者。日中戦争(抗日戦争)に際しては中国国民党の抗日宣伝に従事し、国共内戦期に国民政府の外交部長をつとめた人物である。また、教育・文化振興においても重要な役割を果たした。字は雪艇。
清末は南路高等小学、湖北優級師範を経て省立天津北洋大学に入学した。武昌起義が勃発すると、武昌に戻り、革命派の都督府秘書に任ぜられている。1913年(民国2年)、イギリスに留学し、ロンドン大学政治経済学院(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)に入学した。1917年(民国6年)、卒業して政治経済学士の学位を取得している。続いてフランスへ赴いてパリ大学に入学し、1920年(民国9年)に法学博士の学位を取得した。帰国後は国立北京大学で教官をつとめ、その傍ら、週刊誌『現代評論』を創刊した。[1][2]
1927年(民国16年)6月、国民政府法制局局長に任命される。同年12月には、湖北省政府委員兼教育庁庁長に転じた。翌年10月、デン・ハーグで常設仲裁裁判所仲裁人に任命される。11月、立法院立法委員に任ぜられた。1929年(民国18年)3月、国立武漢大学校長となる。1931年(民国20年)12月、中国国民党第4期候補中央監察委員に選出された。[1][2]
1933年(民国22年)4月、国民政府教育部部長に抜擢された。1935年(民国24年)6月、国立中央研究院第1期評議員となり、同年11月には国民党第5期候補中央監察委員に選出されている。1938年(民国27年)1月、教育部長を退任し、軍事委員会参事室主任に転じ、あわせて政治部指導委員に任ぜられた。同年6月には国民参政会秘書長にも任ぜられている(1943年9月まで)。翌1939年(民国28年)11月、国民党中央宣伝部部長に任ぜられて抗日宣伝に従事し、1942年(民国31年)12月までこの地位にあった。また、1941年(民国30年)から1943年までは、中央設計局秘書長も兼任している。1943年4月、三民主義青年団第1期中央監察会監察に任ぜられ、翌1944年(民国33年)11月には中央宣伝部部長に再任している。[2][3]
1945年(民国34年)5月、王世杰は第6期国民党中央監察委員に再選され、同年7月、行政院長に就任した宋子文の後任として外交部長に任ぜられた。その翌月、宋に随従してソ連を訪問し、中ソ友好同盟条約に調印した。帰国後、重慶での中国共産党との双十協定の交渉に従事している。[4]1946年(民国35年)7月のパリ講和会議に代表団団長として出席し、翌年9月の第2期国連総会と1948年(民国37年)9月の第3期国連総会で、それぞれ首席代表をつとめている。このほか、制憲国民大会と行憲国民大会で代表となり、1948年3月には第1期中央研究院院士となった。同年12月、外交部長を離任し、呉鉄城が後任となる。[3][5]
蔣介石が台湾に逃れると、王世杰もこれに随従し、1950年(民国39年)3月、総統府秘書長に任ぜられた。1952年(民国41年)10月、第7期国民党中央評議委員(第8期~第12期も連続就任)となり、1958年(民国47年)7月、行政院政務委員に任ぜられた。また、国連総会でも代表を何度かつとめている。[3][6]
1962年(民国51年)4月、中央研究院院長に任ぜられる。この間、国立故宮・中央博物院両院共同理事会常務理事、国立故宮博物院管理委員会常務委員、中華文化復興運動推行(推進)委員会常務委員なども兼任した。1970年(民国59年)4月、院長を辞任し、総統府資政に転任した。1981年(民国70年)4月21日、台北市にて病没。享年91(満90歳)。[3][6]
中華民国
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