王 弘(おう こう、太元4年(379年)- 元嘉9年5月29日[1](432年7月12日))は、中国の東晋末期に劉裕(南朝宋の武帝)に仕えた政治家。字は休元。本貫は琅邪郡臨沂県。東晋の大功臣王導の曾孫。祖父は東晋の中領軍の王洽。父は東晋の散騎常侍の王珣。劉裕に九錫をもたらし、また劉義隆(南朝宋の文帝)の下でも大いに参与し、最終官位は司徒に至った。
王弘は小さなころから学問に打ち込み、清廉恬淡なることで名を知られており、謝混とよしみを通じていた。その名声のため司馬道子の驃騎参軍主簿として取り立てられた。その後さらなる出世の諮問もなされたが、父の王珣のとりなしにより立ち消えとなった。父の喪に服したのち、司馬道子や司馬元顕が王弘を招聘しようとしたが、いずれも辞退した。
元興3年(404年)、劉裕の桓玄打倒に功績があったということで、華容県五等侯に封ぜられた。しかし、義熙6年(410年)の盧循率いる五斗米道軍の侵略があった時には、尋陽にまで逃げている。事態が収束したのち、中軍諮議参軍・大司馬(司馬徳文)右長史を経て呉国内史となった。劉裕が太尉となると長史、次いで左長史となった。
義熙13年(417年)、劉裕の北伐に従軍し、王鎮悪らが洛陽を陥落させると、九錫の到着が遅れていたため、催促のため王弘を建康に向かわせた。建康で劉裕の代任をしていたのは劉穆之であったが、王弘の到着を聞くと、手続きを進め切れていなかったことを恥じ、また恐れ、発病して死んだ。劉裕が劉穆之の死を受けて彭城に帰還したところで、王弘を彭城郡太守に任じた。さらに江州に移り、監江州豫州之西陽新蔡二郡諸軍事・撫軍將軍・江州刺史となった。任地では善政を布き、民はこれに安んじたとされる。
元熙元年(419年)、謝霊運が愛妾を軍人に寝取られたことに怒り、その軍人を殺すという事件が発生。この事件を厳しく裁かなかった同族の王准之を糾弾し、その振る舞いの正しさを劉裕より称賛された。
永初元年(420年)、劉裕が宋の武帝として即位すると、散騎常侍を加えられ、また佐命の功から華容県公に封ぜられた。永初3年(422年)には宮廷入りし、衛将軍・開府儀同三司となった。
武帝の崩御後、あとを継いだ劉義符の行状が甚だ皇帝に相応しくない、とのことで、景平元年(424年)に徐羨之らは劉義符を廃立し、のちに殺害した。王弘もこの謀議に関わっていた。ただし、元嘉3年(426年)に文帝が徐羨之らの誅殺をなした時、積極的な関与ではなかったこと、また王弘の弟の王曇首が文帝の側近としてとりなしたこともあり、特に罪には問われなかった。それどころか文帝政権下でも積極的な献策をなし、その功績より司空、建安郡公への昇進が諮られたが、辞退した。車騎大将軍となった。文帝が謝晦討伐に親征した際には、劉義康とともに建康の留守を守った。
徐羨之らの誅滅により、宮廷の枢要を多く琅邪王氏が固めることとなった。これを危惧した范泰や成粲が、王弘に枢要から退くよう勧めていた。そのため元嘉5年(428年)に旱魃が発生した際、その責任を取るため、という形での降格を願い出た。そのため衛将軍・開府儀同三司への降格が認められた。元嘉6年(429年)にはさらに上表し、劉義康に元の職掌を譲渡した。
後に病を得て寝込むことが多くなったため引退を請うたが、文帝は認めなかった。元嘉9年(432年)、太保・中書監を加えられたが、同年5月壬申に54歳で死去した。文昭公と諡され、武帝の霊廟に配食された。