『生ける屍』(いけるしかばね、ロシア語: Живой труп)は、レフ・トルストイによるロシアの戯曲である。1900年(明治33年)前後に執筆されたが、1910年(明治43年)のトルストイの没後すぐに出版されたのは、トルストイが本作は未完であると考えていたからである。出版されるや即座に成功し、現在も上演され続けている。
主人公のフョードル・プロタソフは、妻のリザは真の意味で自分を夫に選んだのではないと思い込み、悩み苦しんでいた。リザにとってよりよい相手、ヴィクトル・カレーニンがいたからだ。フョードルは自殺したかった。だがその勇気は持ち合わせていなかった。現在の生活から逃げ出し、最初に堕ちたのはジプシーの集団、それもジプシー歌手のマーシャとの性的関係に嵌ってしまう。マーシャの両親の拒絶に直面し、フョードルは再び同じように逃げ出すのである。再び、自殺したいと考えた。だが勇気に欠けていた。彼の堕落はさらにつづいた。
一方、妻のリザは、夫は死んでしまったものと考え、他の男性と結婚していた。フョードルが発見されたときには、リザは重婚罪を負い、夫の失踪を偽装したと告発されていた。フョードルは法廷に現れ、リザは夫である自分が生きていることを知ることなどできなかったことを証言する。リザは新しい結婚生活をあきらめるか、シベリアへ流刑になるべきだと、裁判官が宣告したとき、フョードルは自らを拳銃で撃ちぬいた。半狂乱になってリザは叫ぶ。自分がずっと愛していたのはフョードルだけだったのだと。
本作の初演は、1911年(明治44年)、コンスタンチン・スタニスラフスキーのモスクワ芸術座であった。同上演が終わるとすぐにサンクトペテルブルクでの上演が行われた。急速に多くの言語に翻訳され、ベルリン、ウィーン、パリ、ロンドンでは同年のうちに上演が行われている。
この節の註[1]。
アメリカ合衆国では、英語による上演はそれほど早くはなかったのだが、ニューヨーク市では、同年のうちにイディッシュ語での上演が行われている。ジェイコブ・アドラーの製作・主演、レオン・コブリンがイディッシュ語に翻訳した。同年11月3日の初日は、同年のニューヨークの演劇シーズンの大イヴェントの一つであった。数日後のニューヨーク・タイムズには、ハーマン・バーンスタインによる拡大記事が、戯曲全文の英語訳に近いほどの量のロング・シノプシスとともに掲載された。当時の同紙の記事の典型では、イーディッシュ語演劇に対していくぶん軽蔑的なはずであったが、このときの記事は、数人のユダヤ人記者の一人が書いたものであり、アドラーの差し迫った上演については決してはっきりとは言及しなかった。
アドラーによる上演は4か月続き、低料金が貢献してきた約6年間の後、ニューヨークにおけるイーディッシュ語演劇の命運の再生に寄与した。
ニューヨークでは、1916年(大正5年)、ドイツ語での上演もなされ、その後、1918年(大正7年)にはついにブロードウェイで英語による上演が行われた。タイトルはRedemption(「贖罪」の意)で、アーサー・ホプキンスが製作した。ルーラ・ローゼンフェルドは、ジョン・バリモアが1919年(大正8年)に主演していると指摘している。ホプキンスのRedemptionを元に、1930年(昭和5年)、フレッド・ニブロが監督し、同タイトルで映画化した(日本語題『生ける屍』)。
国立国会図書館が所蔵する最も古い訳は、前田天飆が訳し敬文館が上梓した1913年(大正2年)版である[1]。1914年(大正3年)11月には、小林愛雄訳版で無名会によって上演されている。
1917年(大正6年)、島村抱月の芸術座が松井須磨子を主演に上演し、松井が劇中で歌う『さすらいの唄』のレコードがニッポノホン(現在のコロムビアミュージックエンタテインメント)から発売され、流行した。翌1918年(大正7年)には、芸術座の『復活』を『カチューシャ』のタイトルで製作して大ヒットさせた日活向島撮影所が、『生ける屍』のタイトルで製作した[2]。
日本語版、国立国会図書館蔵書のみの一覧[1]。
下記は世界中で製作された本作を原作とした映画の一覧である[3]。日本公開のものには日本語題を付した。
初期の上演 ^