田中 昌之 | |
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出生名 | 田中 昌之 |
別名 |
田中 雅将 田中 雅之 |
生誕 | 1951年6月30日(73歳) |
出身地 | 日本・佐賀県伊万里市 |
ジャンル | J-POP、ロック |
職業 | シンガー |
活動期間 | 1971年 - |
レーベル | Apple Rock records |
事務所 | Cat gear co.,ltd |
共同作業者 | クリスタルキング |
公式サイト | 田中昌之 Official Website |
田中 昌之(たなか まさゆき、1951年〈昭和26年〉6月30日 - )は、日本の歌手。佐賀県伊万里市出身[1]。
愛称は「マー坊」。ロックバンド「クリスタルキング」の元ボーカルとして知られる。既婚。
1971年に長崎県佐世保で中村公晴・山下三智夫、他二人と共にクロスロードを結成、米軍キャンプ、ディスコ等で活動していた。
1975年より、ボーカルとして「クリスタルキング」に参加し高音パートを担当。1979年にクリスタルキングとしてキャニオン・レコードより博多を唄った『大都会』でデビュー。同曲は売上150万枚を超すヒットとなり、第18回ヤマハポピュラーコンテストにおいてグランプリ受賞[2]、第10回世界歌謡祭でグランプリと歌唱賞をダブル受賞[2]している。
『大都会』でのデビューをきっかけに、そのハイトーンが大々的に持てはやされた。当時「スリーオクターブの美声」というキャッチフレーズで紹介されたファーストアルバム『An End』(ソロ曲)では、ソプラノばりの高音を歌っている。力強い高音に目が行きがちだが、『サマーシェイド』という曲では野太い中音を聴くこともできる。本人曰く「高音はピアノの右端まで出せる」とのことだが、一方で低音はそれほど得意ではないらしく、どこまで出るか正式に調べたことはないらしい。
1986年にクリスタルキングを脱退しソロ活動を開始[2]。同年『1000カラットのサマーブロンズ』がUCC缶コーヒーのCMソングとなる[2]。
1989年6月、バンド仲間との草野球の試合で三塁手として守備中にイレギュラーバウンドした打球が喉を直撃し、声を一時的に失う。その後声自体は回復したものの、かつてのハイトーンボイスは失われた。約3年間悩み続け、歌を辞めようかと思った時期もあったという。
しかしその後、友人である福岡ダイエーホークス(当時)の若井基安に「どんな豪速球の投手でも、いつかは変化球で勝負しなければならない日が来る。不慮の事故とは言え、お前は変化球で勝負する勇気がないのか?」と問われたことで意識が変化し、歌を続けようと決心。その時、思わず「(立ち直るきっかけを与えてくれて)ありがとう!」と感謝の言葉を述べた。それをきっかけに現在もシンガーとして活躍し続けている。
その後(1995年)、クリスタルキングに戻り約2年活動するが、1997年末に全員がリーダーから解雇通知を受け、クロスロードを結成。2年活動し、のちにソロになる。
1997年、ポッカの缶コーヒー「クリスタルブラック」のCMに出演した事で再ブレイク[2]。CMはシリーズ化され、その年のCM好感度タレント第1位となる[2]。
1998年、特撮テレビドラマ『ウルトラマンガイア』の主題歌を大門一也とのユニットで歌唱。1999年、ゲーム『バトルギア』歌唱。2000年には特撮テレビドラマ『仮面ライダークウガ』の主題歌を歌唱。2006年、ゲーム『塊魂』のオープニングテーマは田中雅将名義は、田中昌之の歌唱である。
2003年に芸名を田中 雅将に改名。さらに2004年に芸名を田中 雅之に改名[2]。
2011年3月21日に急性心筋梗塞で倒れ、横浜市立みなと赤十字病院に救急搬送される。搬送時に心肺停止状態となったが4度目の自動体外式除細動器 (AED) 措置で蘇生したという[3]。田中本人によると「その日の(横浜市立みなと赤十字)病院の当直医が血管カテーテルの専門医だったことで、血管内カテーテル治療を直ちに受けて4日間で退院できた」とのことである[3]。
2013年2月より、芸名を本名の田中 昌之に戻し活動している[2]。
レッド・ツェッペリンの大ファンとしても有名であり、特にボーカルのロバート・プラントを神と崇めている。
アニメ・漫画が大嫌いで、主題歌を担当した『北斗の拳』の原作の単行本を渡されながらも一切読まなかった。
お笑いコンビ・チョコレートプラネットの松尾駿の父は従兄弟である[4]。
2024年、シャンソン歌手の伊藤佐知子と共に宮城県仙台市の仙台市民会館でコンサートを行う[5]などライブ活動も行っている。
この節の加筆が望まれています。 |
クリスタルキングのメンバーとして歌った曲についてはそちらを参照。