田村 隆一 (たむら りゅういち) | |
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『現代文学大系 67』(筑摩書房、1967年)より | |
誕生 |
田村 隆一 1923年3月18日 東京府北豊島郡巣鴨村(現・東京都豊島区) |
死没 |
1998年8月26日(75歳没) 神奈川県鎌倉市 |
墓地 | 神奈川県鎌倉市・妙本寺 |
職業 |
詩人 翻訳家 編集者 随筆家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学士 |
最終学歴 | 明治大学専門部文科卒業 |
活動期間 | 1939年 - 1998年 |
ジャンル |
詩 翻訳(ミステリー、児童文学) 編集 随筆 |
文学活動 | 荒地 |
代表作 |
『四千の日と夜』((1956年) 『言葉のない世界』((1962年) 『ハミングバード』((1992年) 『詩集) 1999』((1998年) |
主な受賞歴 |
高村光太郎賞(1963年) 第5回無限賞(1978年) 読売文学賞(1985年) 現代詩人賞(1993年) |
配偶者 |
康子(1948年 - 1955年) 信子(1957年 - 1961年) 岸田衿子(1963年 - 1969年) 和子(1969年 - 1988年) 悦子(1989年 - 死去) |
子供 |
長女(康子との唯一の実子) 長男(岸田衿子との唯一の実子) 義娘(悦子の連れ子) |
田村 隆一(たむら りゅういち、1923年(大正12年)3月18日 - 1998年(平成10年)8月26日)は、日本の詩人・随筆家・翻訳家。詩誌『荒地』の創設に参加し、戦後詩に大きな影響を与えた。 府立三商業学校在学中から詩を書き始めた。明治大学文芸科卒。
鮎川信夫・中桐雅夫らを知り詩誌「LE・BAL」などに参加。戦後は、黒田三郎らも加わって、第2次「荒地」を創刊。現代文明への危機意識をこめ、叙情と理知とが絶妙のバランスをなす散文詩を生んだ。処女詩集は『四千の日と夜』(1956年)。『言葉のない世界』(1962年)で高村光太郎賞受賞。アガサ・クリスティーなどの推理小説の翻訳でも知られる。
東京府北豊島郡巣鴨村(現在の東京都豊島区南大塚)に生まれる。生家は祖父の代から鳥料理店「鈴むら」を経営していた。東京府立第三商業学校卒業後、東京瓦斯に入社するも1日も出社せず退職した。研数学館での浪人生活を経て、明治大学専門部文科(文芸科)を卒業する。
1939年、中桐雅夫編集の『ル・バル』に参加する。鮎川信夫、北村太郎、森川義信、衣更着信、三好豊一郎、牧野虚太郎らと知り合う。
1943年12月、学徒出陣で帝国海軍に二等水兵として入隊、海軍兵科第4期予備学生を経て、海軍少尉となり、滋賀海軍航空隊へ着任した。長身を猫背に曲げて歩き、靴の踵が30度も外側にすり減り、士官服を着た文士崩れにしか見えなかった。士官にもかかわらず練習生と共に食事をし、(通常、練習生と食事をする上官は直属班長の下士官だけであった)、練習生がいたずら半分で山盛りにした飯を平気で平らげ、練習生に限りない親しみを感じさせるようになった[1]。 そのまま戦地へ出ること無く、1945年の敗戦を迎えることになるが、同期生や友人が戦死したことが心に大きな傷を残すことになった[2]。
1947年、鮎川信夫、北村太郎らと『荒地』を創刊する。
1950年より翻訳を開始する。処女訳書はアガサ・クリスティ『三幕の殺人』。その版元であった早川書房に1953年より1957年まで勤務、編集と翻訳にあたる。当時の部下だった福島正実、都筑道夫らの回顧文では「有能だが、あまり仕事をしない、風流人」として描かれている。退社後は他の出版社とも仕事をし、数多くの推理小説や絵本を紹介した。
1956年に処女詩集『四千の日と夜』を刊行した。この詩集は2年後に筑摩書房の『現代日本文学全集』に収録されるという評価を受けている。1963年、『言葉のない世界』で高村光太郎賞を受賞する。1967年から翌年にかけては、アメリカのアイオワ州立大学に客員詩人として招かれた。その後、1971年にも谷川俊太郎らと渡米し、詩の朗読を行った。同年、英訳詩集『World Without Words』出版(Takako Uchino Lento訳)。1978年、『詩集1946~76』(最初の全詩集)によって第5回無限賞を受賞する。1985年、『奴隷の歓び』で読売文学賞を受賞する。1993年、『ハミングバード』で現代詩人賞を受賞する。
軽妙なエッセイも得意とし、『ぼくの遊覧船』『青いライオンと金色のウイスキー』ほかの著書がある。雑誌『面白半分』で、1979年7月号~12月号の編集長だった。
晩年は萩原朔太郎賞の選考委員を務め、テレビ番組への出演も行うなど、旺盛な活動ぶりを見せた。「おじいちゃんにも、セックスを。」というコピー(制作は前田知巳)が打たれた宝島社の広告にモデルとして登場し、大きなインパクトを与えた。
1998年8月26日、食道癌のため死去。享年75。亡くなる当日、最後に冷や酒を1合飲んで「うまい」と喜び、数時間後に眠るように逝去した[3]。最後の詩集は朝日新聞社から死後に刊行された『帰ってきた旅人』である。戒名は泰樹院想風日隆居士[4]。