畑 正憲 はた まさのり | |
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(2003年) | |
誕生 |
1935年4月17日 福岡県福岡市 |
死没 |
2023年4月5日(87歳没) 北海道標津郡中標津町 |
職業 |
作家・エッセイスト ナチュラリスト・動物研究家・プロ雀士 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京大学理学部 |
活動期間 | 1967年 - 2023年 |
ジャンル | SF・ノンフィクション・エッセイ |
主題 | 自然・動物 |
代表作 |
『ゼロの怪物ヌル』 『天然記念物の動物たちシリーズ』 『ムツゴロウシリーズ』 |
主な受賞歴 | 日本エッセイスト・クラブ賞・菊池寛賞 |
デビュー作 | 『われら動物みな兄弟』 |
親族 | 津山舞花(孫) |
公式サイト | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 文学 |
基本情報 | |
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出身地 | 福岡県福岡市 |
生年月日 | 1935年4月17日 |
没年月日 | 2023年4月5日(87歳没) |
所属団体 | 日本プロ麻雀連盟 |
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畑正憲 | |
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YouTube | |
チャンネル | |
活動期間 | 2020年6月22日 - |
ジャンル | 動物 |
登録者数 | 2.96万人 |
総再生回数 | 544,358回 |
チャンネル登録者数・総再生回数は 2023年4月6日時点。 |
畑 正憲(はた まさのり、1935年〈昭和10年〉4月17日 - 2023年〈令和5年〉4月5日[1][2])は、日本の小説家、エッセイスト、ナチュラリスト、動物研究家、プロ雀士。
愛称は「ムツゴロウさん」。日本エッセイスト・クラブ賞(1968年第16回)、菊池寛賞(1977年第25回)受賞、日本プロ麻雀連盟最高顧問であり初代十段位(畑が強すぎたため畑を位付けするために創設された)、最高位戦創案者。
畑は1935年(昭和10年)福岡県福岡市で生まれ[3]、東京大学理学部で動物学を学んだ後、株式会社学研に入社して教育用の科学映画の作成に関わる。その後、動物関連のエッセーなどで作家としてデビュー。あだ名であるムツゴロウを冠したシリーズや小説を著した。
1971年に動物との共棲を目指して北海道に移住。後にこれが「ムツゴロウの動物王国」へと発展する。動物に造詣の深いキャラクターとしてテレビの動物番組に登場した。麻雀など、他の趣味に関わってのテレビ出演もある。テレビ番組の規制が厳しくなった現状を例に挙げて「海外の国でハトや子羊を殺して食べている。そうした動物をつぶすシーンを報じるか?。でもそれは社会の営みの一部。成り立ちそのもの、すなわち多様性をどう受け止め、感じるかという問題。一部の問題だけをクローズアップしていると、全体を見誤ることになる。僕は行き過ぎた規制や、そうした動きを民主主義の風化と言っているが、政治に留まらず社会全体がそうした風潮になってきているように思う」と答えている。
1935年〈昭和10年〉に福岡県福岡市生まれ[3]、医師の父が満州国に赴任したため、幼年時代を満蒙開拓団の村で育つ。狼と犬の雑種を飼ったり、水門でナマズを捕まえるなどの動物に絡んだエピソードはこの頃からある。
太平洋戦争のさなかに、兄の受験に同行して帰国。中学、高校時代を父親の郷里である大分県日田市で過ごす。
大分県日田市にある大分県立日田高等学校から東京大学理科二類に現役で合格。教養学部前期課程時代は駒場寮に住み、数匹の犬を飼っており、その犬が寮生らにより勝手に学園祭で食用として食われてしまったと告白したが、一方でその後そのような事実の存在を否定している[4]。駒場寮廃寮問題が持ち上がったとき、「あんな汚い物は、いち早く潰してしまうべき」と率先して廃寮に賛成した。
当時の理科II類は現在の理科III類の内容を含んでいたため、父からは医学部医学科への進学を望まれていたが、理学部動物学科に進学するか文学部哲学科に傍系進学するか悩み、結局父に無断で理学部動物学科を選択し、動物学を専攻。学部卒業後に大学院理学系研究科修士課程に進学してアメーバの生理学的研究に携わる。
この頃、日本における動物行動学の草分けである日高敏隆や、素嚢乳の研究で東大の研究室に出入りしていた常陸宮正仁親王とも親交を持つ。しかし、研究の途上で文学の世界で生きるか、研究者の世界で生きるか悩み、自殺寸前まで精神的に追い詰められ、突如研究室から姿を消した。尚、本人は書類上修了になっているか未修了になっているのかを確認していない。
1961年(昭和36年)、学習研究社(現・学研ホールディングス)の映像部門に就職し[3]、理科関係を中心に学習映画などの作成に携わる。しかし、社の成長による巨大企業化とそれによる社風の変質を嫌い、社長に直訴状を送って退職。学研時代の綽名は専ら「センセイ」であった[要出典]。
その後は、文筆業に専念することになる。文壇では北杜夫に傾倒し、彼の作品を筆写して文体を修行した。のちに無人島に移住した際には、事前にわざわざ北杜夫に手紙を出して報告した。
「ムツゴロウ」という綽名は、学研時代、徹夜で仕事をしている姿が魚のムツゴロウに似ていたことから命名されたと言われていたが、実際はムツゴロウシリーズを出版する際出版社が名付けたと自著[要文献特定詳細情報]で告白。
1967年(昭和42年)、『われら動物みな兄弟』を刊行して翌年、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。しかし、学習研究社が「出版会社」であることから、他社から発刊したことが社内で問題とされ、退職することになる。
1969年(昭和44年)、金の星社から子供向けSF『ゼロの怪物ヌル』、『天然記念物の動物たち』などを刊行。1970年、『ムツゴロウの博物志』を刊行。以後、いわゆるノンフィクション作家となる。
中学校時代に出会った同級生の女性と結婚し、娘をもうける。娘を生物に深く触れさせて育てたところ、魚の命を奪って食べることを拒絶するようになったことに衝撃を受け、もっと深く生の自然に触れさせて、表面的な生き物好きの精神の虚弱さを払拭させて育てることを決意した。畑自身ヴィーガニズムはキッパリと否定していた。
1971年、東京を離れ、北海道厚岸郡浜中町の嶮暮帰島に移住。さらに対岸の本土地区に移り、1972年に「ムツゴロウ動物王国」を開園。1979年には標津郡中標津町にも広大な牧場やログハウスの自宅を有したムツ牧場を開園。ここで多くの動物を飼育しながら文筆生活を送るうちにヒグマとの生活を描いたエッセイや、天然記念物に指定された動物の保全の現状を追跡したルポなどで文壇での成功をおさめる。
その後、彼のエッセイに共鳴して、この共同生活に加わる若者が増えた。この共同体の姿が、1980年12月からテレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」としてシリーズ放映されて、80年代には大きなブームとなって子供達の人気番組となり、ムツゴロウの名前は全国規模で周知されるようになった。
この間にも自然保護運動に奔走していた。増田俊也の『七帝柔道記』には、畑が1987年の知床原生林伐採問題時に急先鋒に立って反対運動に参加していた場面が実名で出てくる。
1年のうち、ムツゴロウ王国に滞在する期間はあまり長くなく、それ以外は各地で講演などをしている[5]。
「ムツゴロウ動物王国」は原則非公開だったため、北海道で培ったノウハウを生かし、「都会の人々に動物にふれあってもらう」というコンセプトで、2004年7月28日、東京都あきる野市の東京サマーランド内の約9万m2の敷地に観光施設としての「東京ムツゴロウ動物王国」を開園。北海道には一部のスタッフや動物が残留するのみとなった。
東京ムツゴロウ動物王国は集客が伸びず、2006年10月14日、「ムツゴロウ動物王国」の運営会社だったグローカル21が破綻し、負債総額8億円に上ることが明らかとなった。その後運営主体を畑正憲のプロダクション「ムツプロ」に暫定的に移すも、2007年10月17日、東京都あきる野市の「東京ムツゴロウ動物王国」が2007年11月25日で閉園、活動発祥の地である北海道へ戻ることが発表された。
東京ムツゴロウ動物王国の運営資金を個人保証で借り入れていた関係から、個人としても約3億円の借金を背負ったが、執筆・講演活動などの収入で約8年間かけて借金を完済した[6]。
2017年10月に心筋梗塞を発症し入院、手術を経て入退院を繰り返した後、自宅療養を続けてきた。その一方でYouTubeなどで北海道での生活を発信してきた[7]。
死の一週間前から容態が急変、2023年4月5日に中標津町の自宅で心筋梗塞を発症し倒れ、午後5時53分に搬送先の病院で死去した。87歳没[1][2]。
前述の通り妻との間に一人娘(津山明日美)が生まれている。また孫の中には女優・バレエダンサーの津山舞花がいる[8]。
日本プロ麻雀連盟に於ける段位は九段。麻雀の腕は相当のもので、2012年現在も存在するタイトル戦「十段戦」は、あるプロ雀士[誰?]が「連盟の最高位は九段だが、ムツゴロウさんは十段の実力の持ち主」と評したことにちなんで創設された。畑自身は「入団テストを実施するよう提案したとき、自分もそれを受けて九段の人間に圧勝し、九段と認定された。翌年に九段の人間の誰が一番強いのか決めようということで十段を作った」と語っている[4]。ちなみにこの大会には自ら出場し3回優勝している。
徹夜を厭わない性格から、徹夜麻雀が非常に得意であり、ムツゴロウ王国では誰かがぶっ倒れるまで麻雀を打つことがしばしばあった。これをコンセプトとして、不眠不休で半荘50回を打ち続ける「雀魔王戦」というタイトル戦が日刊ゲンダイの主催で行われていたこともある[4]。この大会にも自ら出場し第1回・第2回と連覇している。後に本人が語ったところでは「39歳の時に胃がんになって胃を全摘出し、いつ再発するかもしれないという不安に悩まされていた際に、僕を救ってくれたのが麻雀だった」とのことで、当時は「10日間不眠不休で麻雀を打ち続けた」こともあるという[4]。
タイトル戦「最高位戦」は、畑の提唱により創設された。昭和麻雀十傑の一人にも選ばれた。このような雀豪ぶりから雀聖・阿佐田哲也は『ぎゃんぶる百華』にて雀鬼ベストテンにランクインさせ、「北海の雄」と称した。麻雀漫画家片山まさゆきの作品には、北海道で動物たちと暮らしている「ウツゴロウ」という名の雀師が登場する[9]。また、アーケードゲーム『麻雀格闘倶楽部5』から麻雀格闘倶楽部GRAND MASTERまでは、プロ雀士の1人[注釈 1]としてゲームに参加していた。最高位戦八百長疑惑事件では卓を囲んだ1人であった。
このように有名人かつ強豪雀士でありながら、いわゆるテレビマッチ(テレビの麻雀対局番組)への出演は長年避けてきた畑だったが、2009年には『第4回麻雀格闘倶楽部』(MONDO21)のエキシビションマッチに出場し、約30年ぶりにテレビマッチ出演を果たした(対局相手は小島武夫・灘麻太郎・荒正義)。同年の日本プロ麻雀連盟主催 第一回麻雀トライアスロン・雀豪決定戦でも決勝卓に残り、一部の局でTV放映された(対局相手は小島武夫・先崎学・滝沢和典)。また小島武夫のDVD『ミスター麻雀 小島武夫五番勝負』(2008年)にも対局相手の一人として登場している。
役満をよく和了するらしく、デイリースポーツに連載されている「マージャン灘麻太郎の定石打法」[要文献特定詳細情報]によると「私と一緒に打っている時だけでも十回以上アガっている」という。また、地和で国士無双を和了したことがあるという(3139回分)。
囲碁はアマチュア五段の腕前。50歳頃から絵も描き始め、年に1回のペースで個展を開催している。競馬も好き[注釈 2]だが、それを話すと世間のムツゴロウのイメージとのギャップに驚かれるらしい。
元西鉄ライオンズ投手の畑隆幸は父方の従弟である。西鉄が東京に遠征に来た時には、彼は球場によく足を運んでいた。
また珍しい食べ物が大好きなことでも知られる。『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』内で、土筆の胞子を集めそれで和菓子を作るシーンが公開された事がある[10]。著書『われら動物みな兄弟』では、実験で死なせた動物を死体処理と供養のために食べた事が『新しい食品の開発』のきっかけだと述べ、原生動物に始まり海綿動物、腔腸動物、扁形動物など様々な動物の味を記しているが、アメーバについては『ゴマンと食べるも、量感なし』としている[11]。テレビ番組ではアメリカに生息する巨大ナメクジをまるごと食べたこともある。
学生時代に覚えてから60年来のヘビースモーカーで、作家になった30代からたばこが手放せなくなり[12]、晩年も1日20本吸うことを止めなかった[13]。海外ロケで厳しい環境や様々な大自然の中でも吸うことがあったほか[12]、2017年に緊急入院したときも病室の窓から上半身だけ外側に乗り出してたばこを吸っていたら看護師に叱られたという逸話もある[14]。喫煙できる場所が減り、喫煙者へのバッシングが増えている風潮については、「たばこに限らず自分たちの正義を振りかざして物を言う、そういう考え方をする人が多くなっており、民主主義の風化・害毒だと思う。個人個人の価値観を認めない、他人に対して不寛容な社会は民主主義ではない」と、憂いの言を残している[12]。
55歳よりゴルフを始め、週刊ゴルフダイジェスト誌に連載を持つまでに至った[15]。
ウィキペディア日本語版の本項目において、「大麻の栽培許可証を持ち、『ムツゴールド』なる品種を育ててアムステルダムの大麻品評会で準優勝した」という虚偽の内容を書き加えられたことがある[16]。この嘘を真に受けた者がインタビューで畑に直接尋ねたため、本人の知るところとなった[16]。この一件について、畑は著書で以下のように強い不快感を表明した。
私は、麻薬の類が極端に嫌いであり、手を出すなよと、周りに戒めてきた。多分、フリーライターが書いたものだろうが、私が最も嫌いなものをつけ加えて、裏でニヤリとしているに違いなかった。それは悪意に満ちた人物紹介だった。 — 畑正憲、『ムツゴロウの東京物語』、2008年、ISBN 978-4-434-11672-8、134-135ページ[16]
(初出:産経新聞東京朝刊、2006年3月16日[16])
また畑は、ウィキペディアで予習してきたらしいそのインタビュアーの質問内容が誤解に基づくものばかりで「すべて的が微妙に外れていた」とも述べ、ウィキペディアを批判している[16]。畑はウェブや電子メールのような新しい情報伝達手段の普及を歓迎しているが、それにより悪意の虚偽情報が拡散されやすくなったことについて憂慮している[16]。
上記の大麻栽培の噂がウィキペディア日本語版に書き込まれたのは2006年1月5日(編集の差分を参照)であるが、それより前の2000年頃には同様の噂が世間に広まっており[17][注釈 3]、月刊サイゾーの2001年2月号(2001年1月18日発売[18])が畑の大麻栽培に関する噂を取り上げて検証を行っている[17]。この検証記事では、大麻取り扱いの認可を畑正憲に与えたかどうかを北海道庁へ問い合わせ、そもそも畑から申請すら出ていないとの回答を道庁から得た[17]。また噂に出てくる「アムステルダムの大麻展」をカンナビス・カップのことと推定してカンナビス・カップのウェブサイトを調べ、ウェブサイトに畑の名前が一切出ていないことも確認した[17]。月刊サイゾーの記事はさらに畑本人にもインタビューを行った[17]。畑は噂の存在自体は2000年の夏頃に別の取材者から聞いて知っていたが、噂の内容については事実無根だと否定した[17]。
上述のように畑自身が繰り返して否定してきたにもかかわらず、この大麻栽培に関する風聞は、畑が死去した2023年4月の時点でも広まっていた[19]。例えば西村博之は、2023年4月7日に報道番組『ABEMA Prime』でこの噂が事実であるかのように発言し、ネット上で批判を受けた[20]。
2007年1月に三洋物産からパチンコ台「CRムツゴロウの動物王国」がリリースされ、全国のパチンコ店に設置されている。なお三洋物産初のタイアップ機である。パチンコ台発表記者会見では、乳牛とともに登場し、乳首から直接牛乳を飲むパフォーマンスを行った[23]。