留守政景と殉死者の肖像(大安寺蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天文18年(1549年) |
死没 | 慶長12年2月3日(1607年2月28日) |
改名 | 留守政景、伊達政景 |
別名 | 雪斎(号)、六郎(通称) |
戒名 | 大安寺殿高嶽玄登大居士 |
墓所 |
岩手県一関市の機織山 岩手県奥州市水沢の大安寺 |
官位 | 従五位下上野介 |
主君 | 伊達輝宗、政宗 |
藩 | 陸奥仙台藩 |
氏族 | 伊達氏、留守氏、水沢伊達氏 |
父母 |
父:伊達晴宗、母:久保姫(岩城重隆娘) 養父:留守顕宗 |
兄弟 |
岩城親隆、阿南姫、伊達輝宗、鏡清院、 小梁川盛宗室、政景、石川昭光、彦姫、 宝寿院、国分盛重、杉目直宗 |
妻 | 黒川晴氏娘・竹乙 |
子 | 宗利、天童重頼 |
留守 政景(るす まさかげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。伊達 政景(だて まさかげ)の名でも知られる。伊達氏の一門で、留守氏18代当主。居城は初め岩切城(高森城)、後に利府城。官位は従五位下・上野介。
天文18年(1549年)、伊達晴宗の三男として誕生。永禄10年(1567年)、父・晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、奥州の名族・留守氏を継ぐことになった。その後、村岡氏や余目氏の反抗を鎮圧すると共に、兄・輝宗や甥・政宗を補佐し、実家の伊達氏の勢力拡大に貢献し、各地を転戦する。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、所領を没収された。同年、岳父・黒川晴氏が政宗のために拘禁されると、その助命を嘆願し、許された。その後、文禄の役にて朝鮮へ渡海して出陣した。帰国後は正式に伊達氏一門に加わる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、政宗の命により伊達軍総大将として、上杉景勝の攻撃を受けていた最上義光の救援に赴いた。小白川[注釈 1]に着陣し、撤退する上杉軍を率いた直江兼続と交戦。戦後の伊達政宗の書状によると伊達勢で80~100の首級を取り、一門でもある大條実頼が負傷するほどの激戦であったという(長谷堂城の戦い)。
後に政宗より伊達姓に復することを許され、慶長9年(1604年)、一関2万石を与えられた。
慶長12年(1607年)、死去。享年59。菩提寺は岩手県奥州市水沢の大安寺。同寺には4人の殉死者と共に描かれた、極めて珍しい肖像画が残る(慶長15年(1610年)虎哉宗乙賛)。
長男・宗利は金ケ崎城主、その後水沢城主となり、仙台藩の一門である水沢伊達家の祖となる。