疾風(はやて)は、日本海軍に所属した駆逐艦[2]。
神風型駆逐艦(2代目)の7番艦である[3]。
同名の日本海軍艦船は1907年(明治40年)に竣工した神風型駆逐艦 (初代)の疾風に次いで2隻目[4]。1941年(昭和16年)12月11日の第一次ウェーク島攻略作戦で、陸上砲台の砲撃を受けて沈没[注 1]。太平洋戦争で初めて戦没した日本の駆逐艦となった[注 2]。
1921年(大正10年)10月12日、峯風型駆逐艦の改良型となる駆逐艦(後の神風型駆逐艦)7隻に、第一~第十三までの奇数番の駆逐艦名が与えられた[8][9]。後に疾風となる第十三駆逐艦は1922年(大正11年)8月24日、艦艇類別等級表に登録された[10]。
9月11日、第十三駆逐艦は石川島造船所で建造される事が決まり[11]、11月11日に起工した[1][2]。
建造中の1924年(大正13年)4月24日、艦名が第十三号駆逐艦に変わった[12]。
1925年(大正14年)3月23日午後4時に進水[13][1]し、12月21日に竣工した[1][2]。
12月25日、第十三号駆逐艦は佐世保鎮守府籍となり[14]、同型艦の第十一号駆逐艦(追風)、第十五号駆逐艦(朝凪)、第十七号駆逐艦(夕凪)と共に第二艦隊・第二水雷戦隊の第29駆逐隊に編入された[14](艦隊編制は文献参照[15])。
1926年(大正15年)4月2日、第二水雷戦隊が済州島西方沖を航行中[16]、第十三号駆逐艦は第五号駆逐艦(春風)に衝突、軽い損傷を受けた[注 3]。
1928年(昭和3年)8月1日、同型艦9隻の番号艦名が一斉に変更され、第十三号駆逐艦は疾風に改名された[18][19]。同型艦の呼称は神風型駆逐艦に変更された[20]。
12月10日、第29駆逐隊4隻(追風、疾風、朝凪、夕凪)は舞鶴要港部に配備された[21]。
同隊は1929年(昭和4年)11月30日に鎮海要港部[22]、1930年(昭和5年)12月1日に第一艦隊[23][24]、1931年(昭和6年)12月1日に鎮海要港部[25][26]、1933年(昭和8年)11月15日に第一艦隊と転属した[27]。
1935年(昭和10年)11月15日、第29駆逐隊は疾風と追風の2隻となり[注 4]、空母加賀と共に、第二艦隊麾下の第二航空戦隊を1年間編制した[31][32]。
1936年(昭和11年)12月1日-1937年(昭和12年)7月28日までは佐世保警備戦隊の所属となった[33]。
同年8月に第二次上海事変が勃発すると、第29駆逐隊も中国で行動した。9月6日、疾風は広東省・珠江の河口付近で陸上の陣地を砲撃した[34]。13日には中華民国空軍2機に爆撃された[35]。14日、軽巡夕張(第五水雷戦隊旗艦)と第29駆逐隊(追風、疾風)は珠江を遡行し、虎門要塞から出撃してきた肇和級防護巡洋艦肇和と交戦した[36]。追風が別の艦艇と戦い、夕張と疾風は砲撃戦で肇和を座礁に追い込んだ[38]。泊地に戻る途中、クレア・リー・シェンノートが率いる中華民国空軍のA-17軽爆撃機 12機の攻撃を受け、夕張の乗員が負傷した[40]。
9月27日、疾風と追風は陸上の砲台を砲撃した[41][注 5]。
第29駆逐隊(追風、疾風)は1937年(昭和12年)11月から2年間、第一航空戦隊に所属し[43]、その間も中国方面で活動した[44]。この時期の一航戦の空母は加賀(昭和13年12月15日まで)もしくは赤城(昭和13年12月15日から)であり、第五艦隊の作戦に従事した。
1939年(昭和14年)11月15日、第29駆逐隊は第一航空戦隊から外れた。1940年(昭和15年)には鎮海要港部や釜山を拠点に、朝鮮半島沿岸の警備任務に従事した[48]。
1940年(昭和15年)11月15日、第29駆逐隊は再び神風型4隻(追風、疾風、朝凪、夕凪)となった[49]。
同15日付で、トラック泊地を根拠地とする第四艦隊[注 6]隷下に新編された第六水雷戦隊に配属された。第六水雷戦隊は軽巡夕張、第29駆逐隊(追風、疾風、朝凪、夕凪)、第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、望月)で編成されていた。
1941年(昭和16年)1月以降、第十八戦隊(鹿島、天龍、龍田)や第六水雷戦隊を基幹とする第四艦隊は、マリアナ諸島やカロリン諸島で訓練や演習を行った。この演習には第四航空戦隊や第六艦隊も加わった。
6月22日の独ソ戦開戦により、第四艦隊は内南洋常駐となった。
7月22日、第四艦隊の3隻(鹿島、夕張、朝凪)を除く各艦は、太平洋戦争の開戦に備えて日本本土での整備を命じられ、疾風も内地に戻った。7月25日、高塚実少佐が艦長に就いた[63]。10月中旬から下旬にかけ、疾風を含む第四艦隊各艦はトラック泊地に集結した。
またグアム島攻略作戦等に備え、各方面の部隊や艦艇が、南洋部隊(指揮官は第四艦隊司令長官井上成美海軍中将)に編入された[注 7]。
太平洋戦争の開戦と同時に、第四艦隊(旗艦「鹿島」)を主戦力とする南洋部隊は、グアム島、ギルバート諸島、ウェーク島など中部太平洋の島しょ部、南洋諸島の攻略に着手した。
第29駆逐隊(司令瀬戸山安秀少佐、兵45期)は二分され、第1小隊(追風、疾風)はウェーク島攻略部隊に、第2小隊(朝凪、夕凪)はギルバート諸島の攻略部隊に編入された(日本のギルバート諸島攻略)[71]。
ウェーク島攻略部隊の指揮官は、第六水雷戦隊司令官梶岡定道少将であった。第六水雷戦隊(夕張、第29駆逐隊第1小隊、第30駆逐隊)が海軍陸戦隊を載せた哨戒艇や輸送船を護衛、第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将:軽巡天龍、軽巡龍田)が掩護部隊として同行、支援を行う航空部隊や潜水部隊などで構成されていた(編成詳細はウェーク島の戦い参照)[注 8]。
出撃前、第29駆逐隊の主計士官は疾風に立ち寄った際に疾風乗組員全員の遺書をまとめて託され、軍事郵便として内地に送る手配をした。
ウェーク島攻略部隊は真珠湾攻撃が行われた12月8日午後にマーシャル諸島のルオット島を出撃し、10日夜にウェーク島沖に到達した。開戦後にマーシャル諸島から発進した千歳海軍航空隊の九六式陸上攻撃機が複数回にわたりウェーク島を空爆しており、攻略部隊は航空隊からの報告で、艦隊の脅威となる同島ピーコック岬の砲台と同島西側のウィルクス島の砲台は、ほぼ壊滅したと判断していた[83]。ところがウェーク島を守備するアメリカ軍海兵隊はいまだ戦力を保持しており、旧式戦艦から転用された5インチ砲の砲台は[注 9]、日本軍迎撃の準備をおこなっていた。また12月4日に空母エンタープライズによって輸送されたF4Fワイルドキャット戦闘機 14機も、日本軍上陸時点で4機が残存していた。
12月10日22時55分以降、ウェーク島攻略部隊指揮官は上陸作戦の開始を下令した。だが悪天候のため日本軍攻略部隊は大発動艇の発進に失敗し[注 10]、日本軍の上陸作戦は12月11日の夜明けに決行することになった。六水戦司令官(夕張)が11日午前2時15分に発信した命令は「天明時ヨリ左ノ区分ニ依リ砲台及陸上飛行場ヲ砲撃撃破スベシ 夕張「ウェーク」本島、疾風、如月、「ウェーク」本島南部、望月、彌生、「ウイルクス」島、金龍丸、金剛丸、三十二哨、三十三哨ハ島ヨリノ視界限度ニ居レ 追風、睦月ハ揚陸準備ヲ為シ置ケ」であった。
米軍の守備隊は11日午前3時に攻略部隊の船影を発見したが、砲台の射程内に十分に引き込んでから反撃する作戦を採った。戦闘は、日本の軽巡と駆逐艦の艦砲射撃で始まった(夕張は午前3時25分、駆逐艦は午前3時43分に発砲)。午前6時15分(日本軍記録午前4時)にピーコック岬の砲台が夕張に発砲し、ウィルクス島の砲台は単縦陣でウェーク島に前進する駆逐艦3隻に距離6300mで発砲した。
疾風は睦月の後を航行していた[93]。疾風は砲撃に対して左に舵を切り、右舷を砲台の射線に晒す一方で全主砲で応戦できる攻撃的な戦法を採った。日本時間の午前4時3分(現地時間午前7時3分)過ぎ、砲弾が艦中央部に命中し、疾風は爆沈した。日本側の記録では、艦後部から発生した黒煙が全艦を覆って、海上から艦影が消えた。地上の砲台からは、疾風の船体が二つに分断されたあと、それぞれ短時間漂流して沈む様子が視認された。轟沈の原因は魚雷か爆雷の誘爆、もしくはボイラーの爆発と思われる。乗員167名全員が戦死したとされるが、14日に1名が救助された記録もある[99]。
地上砲台の砲撃で既述のように疾風が轟沈し、戦況も不利になっていった。上陸作戦は中止され、ウェーク島攻略部隊は南進してマーシャル諸島への撤退を図った[100]。
しかし、アメリカ海兵隊は爆装したF4Fワイルドキャット戦闘機 4機を発進させ、日本艦隊を追撃した。
この空襲で如月が沈没し[102][103]、損傷艦も続出した。
第一次攻略作戦は完全に失敗した[注 11]。
1942年(昭和17年)1月15日、疾風は駆逐艦籍から除籍された[108]。
- ウェーク島攻略の意図は、昭和十六年度帝国海軍作戦計画で明示された。同島攻略の図上演習は1940年(昭和15年)11月26-28日、1941年(昭和16年)9月11-20日に行われたが、グアム島攻略作戦では不安が残ったものの[注 12]、ウェーク島は鎧袖一触で攻略に成功しており、海軍は楽観視していたという[114]。第四艦隊は開戦が迫った同年10月下旬、ようやく本格的な作戦の立案に着手した。第四艦隊の攻略作戦研究会は、10月27-29日にかけて、トラック泊地の旗艦「鹿島」でおこなわれた。ウェーク島攻略部隊の図上演習や訓練は、12月3日から12月6日にかけてルオット島でおこなわれた。第六水雷戦隊のルオット島到着は12月3日で、多忙の中での上陸作戦準備だった。
※『艦長たちの軍艦史』245-246頁による。階級は就任時のもの。
- 神山忠 中佐:1925年8月25日[121] - 12月1日[122]
- 三木太市 中佐:1925年12月1日[122] - 1925年12月21日[123]
- 三木太市 中佐:1925年12月21日[123] - 1926年12月1日[124]
- 中円尾義三 少佐:1926年12月1日[124] - 1928年12月10日[125]
- (兼)園二郎 少佐:1928年12月10日[125] - 1929年11月1日[126]
- 津田源助 少佐:1929年11月1日[126] - 1930年12月1日[127]
- 江口松郎 少佐:1930年12月1日[127] - 1932年1月11日[128]
- 中津成基 少佐:1932年1月11日[128] - 1932年4月1日[129]
- (兼)上田光治 少佐:1932年4月1日[129] - 1932年7月11日[130]
- (兼)小田操 少佐:1932年8月5日[131] - 11月15日[132]
- (兼)佐藤寅治郎 少佐:1932年11月15日[132] - 1933年5月17日[133]
- 天野重隆 少佐:1933年5月17日[133] - 1934年11月1日[134]
- 中原義一郎 少佐:1934年11月1日[134] - 1936年6月20日[135]
- 田口正一 少佐:1936年6月20日[135] - 1937年1月15日[136]
- (兼)北野亘 少佐:1937年1月15日[136] - 1937年7月13日[137]
- 山田盛重 少佐:1937年7月13日[137] - 1937年11月15日[138]
- 飛田健二郎 少佐:1937年11月15日[138] - 1938年12月15日[139]
- 中杉清治 少佐:1938年12月15日[139] - 1939年12月1日[140]
- 松枝司蔵 少佐:1939年12月1日[140] - 1940年10月15日[141]
- 中川実 少佐:1940年10月15日[141] - 1941年7月25日[63]
- 高塚実 少佐:1941年7月25日[63] - 12月11日(戦死、中佐に昇進)[142][143]
- ^ ウェーク島に配備されたアメリカ海兵隊の陸上砲台の攻撃で「疾風」が沈没し、F4F戦闘機の空襲で「如月」が沈没した。
- ^ 1941年(昭和16年)12月10日にフィリピン攻略戦で第10号掃海艇と第19号掃海艇が空襲により沈没し、同10日にハワイ諸島方面で伊号第七十潜水艦が撃沈された。疾風は「駆逐艦」として最初に沈んだ艦艇である。軍艦としては、1942年(昭和17年)5月2日に沈没した水上機母艦瑞穂となる。
- ^ 〔 査定書[17] 第五號驅逐艦及第十三號驅逐艦觸衝事件ニ付査定スルコト左ノ如シ 第一事實 一.事件ノ概要 大正十五年四月二日午前済州島西方海面ニ於ケル第二艦隊佐鎮部隊聯合第五次演習ハ霧来襲ノ爲開始後約一時間ニシテ中止トナリ第二水雷戰隊ハ分離中ナル第三驅逐隊ヲ併セ第四戰隊ニ續行青島ニ向フ時ニ南ノ微風アリ海上ノ模様和ニシテ視界時々變化アレトモ概ネ百乃至二百米ニシテ時ニ三百米迄拡大セシコトアリ三番隊ノ一番艦第十三號驅逐艦ハ濃霧ノ爲其ノ艦首ヲ以テ前續二番隊ノ殿艦タル第五號驅逐艦ノ二番聯管左舷ニ觸衝シ双方共多少ノ損害ヲ蒙リ第十三號驅逐艦ハ入渠修理ヲ要スルニ至レリ 〕
- ^ 第28駆逐隊(朝凪、夕凪)が新編され、同隊は翌年6月下旬より水上機母艦神威と共に中部太平洋諸島の調査に赴いた。
- ^ 第29駆逐隊の攻撃と前後して、第一航空戦隊の空母龍驤と鳳翔が虎門要塞に接近し、艦上機の空襲で座礁していた肇和(チャオホー)と仮装砲艦舞鳳(ホンフー)を完全に破壊した
- ^ 1939年(昭和14年)11月15日に新編された第四艦隊は弱小部隊であり、翌年前期に軽巡由良や潜水戦隊などが編入されたものの、長期戦に耐えられる部隊ではなかった。
- ^ 第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)、特設水上機母艦聖川丸、舞鶴特別陸戦隊と哨戒艇2隻(第32号、第33号)、第五航空戦隊隷下の駆逐艦朧、第二航空戦隊隷下の第23駆逐隊(菊月、卯月、夕月)など。
- ^ 〔 (ハ)ウエーキ島攻略作戰[77] 第一次ウエーキ島の攻略は艦隊司令部特別陸戰隊(内田部隊)及第六根據地隊派遣陸戰隊(高野部隊)を以て編成せる上陸部隊と第六水雷戰隊(朝凪、夕凪缺)金龍丸、金剛丸、第三十二號及第三十三號哨戒艇等を以て攻略部隊とし、支援部隊たる第十八戰隊及航空部隊、潜水部隊等の協力の下に實施せり/開戦劈頭千歳航空隊攻撃機の全力を擧げてウエーキ島に空襲第一撃を加へ地上にありし敵戰闘機八機を撃攘炎上せしめ爾後連日攻撃を反復し主要軍事施設を破壊し又第二十七潜水隊を以て同島を監視偵察し兼ねて敵の増援に備へたり 〕
- ^ 木俣滋郎『日本軽巡戦史』140頁では「戦艦から練習艦に転用されたユタのもの」と記述する。
- ^ 第一攻略部隊(駆逐艦追風、特設巡洋艦金龍丸、金剛丸)、第二攻略部隊(駆逐艦睦月、第32号哨戒艇、第33号哨戒艇)。
- ^ 「海軍南洋部隊作戦の梗概竝に部隊施設の一般状況」より抜粋[107]〔 攻略部隊は昭和十六年十二月十日未明ウエーキ島に近接し奇襲上陸を企圖せるも第三十二、三十三號哨戒艇の大發は艦尾より容易に泛水し得たるに拘らず金剛丸、金龍丸の大發は風濤強くして暗夜の泛水不可能なりし爲已むを得ず天明を待ち強行上陸を行ふに決し攻略部隊各艦は陸岸に近接し陸上砲台の制壓に努めある時敵残存航空機及砲台の猛烈なる反撃を受け特に敵残存戰闘機二、三機の反復銃撃に依り疾風、如月は相次いで轟沈し其の他の艦艇にも多少の損害を蒙るの状況となり我方は敵戰闘機を掃滅するの手段なきを以て此儘上陸強行は却つて味方艦艇の損害を大ならしむるの不利ありしを以て遂に一時攻略を中止して避退せり 〕
- ^ グアム島の情報を入手できなかった日本軍は、米軍の防衛戦力を過大視していた。グァム作戦には堀井富太郎陸軍少将を隊長とする南海支隊が参加した。
- ^ 「解読されたと思われる暗号/参考 二」開戦後のわが海軍の事故中、D暗号書関係が敵手に渡る懸念のあったものは次のとおりである。一 昭和十六年十二月一日ウェーク島の至近距離において、駆逐艦疾風、如月の二隻が轟沈した。当時の風向、風速、沈没地点の水深からみて、暗号書などを敵に収容される公算はきわめて少なかった。しかし昭和十年北海道の南方海面で駆逐艦が暴風のため艦首が切断される事故があったとき、その暗号書がのちにはるか離れたところで発見された例もあるので、敵に収容される可能性は零とはいえない。(第四艦隊事件)
- 岡村治信「第一章 かがやく珊瑚礁」『青春の棺 生と死の航跡』光人社、1979年12月。 (岡村は第29駆逐隊主計科士官。「追風」に乗艦してウェーク島攻略戦に参加。)
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。
- 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。
- 塩山策一ほか『変わりダネ軍艦奮闘記 裏方に徹し任務に命懸けた異形軍艦たちの航跡』潮書房光人社、2017年7月。ISBN 978-4-7698-1647-8。
- (270-282頁)元三十五突撃隊・海軍二等兵曹・艦艇研究家正岡勝直『小さな傑作"大発"特型運貨船物語 攻略に撤退に多用された十四メートル特型運貨船の実像と戦場の実例』
- 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
- (255-342頁)戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後』
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第三巻 昭和十五年五月一日〜昭和十六年十二月三十一日』中央公論社、1995年11月。ISBN 4-12-403393-1。
- 戸高一成『[証言録] 海軍反省会7』株式会社PHP研究所、2015年1月。ISBN 978-4-569-82330-0。
海軍反省会記録第五十六回「作戦」総論 ― 願望で描かれた作戦(昭和59年7月30日)/海軍反省会記録第五十八回「正されなかった掛け違い ― 情報の軽視、教育方針の動揺」(昭和59年10月1日)
- 戸高一成『[証言録] 海軍反省会8』株式会社PHP研究所、2016年1月。ISBN 978-4-569-82330-0。
海軍反省会記録第六十回「勝って兜の緒を締めよ ― 大敗は大勝の中に芽吹いていた」(昭和59年12月10日)/海軍反省会記録第六十四回「妥協 ― 三国同盟への消極的賛成」(昭和60年4月8日)
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
- イアン・トール著、村上和久「第四章 ニミッツ着任」『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで』文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376420-7。
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- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(1) マリアナ玉砕まで』 第6巻、朝雲新聞社、1967年7月。
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- 松田源吾ほか『軽巡海戦史 駆逐艦を率いて突撃した戦隊旗艦の奮戦と最後』潮書房光人社、2017年3月。ISBN 978-4-7698-1639-3。
- (143-168頁)当時第六水雷戦隊通信参謀・海軍大尉山本唯志『六水戦旗艦「夕張」ウェーキ島攻略戦 悪天下の苦難と駆逐艦沈没を克服やり直しの実相を綴る参謀の手記』
- (261-287頁)戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
- 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 空母 I 鳳翔・龍驤 赤城・加賀 翔鶴・瑞鶴 蒼龍・飛龍 雲龍型 大鳳』 第3巻、光人社、1989年9月。ISBN 4-7698-0453-9。
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- 『第1406号 昭和4年12月11日 昭和5年度艦船役務予定表送付の件』。Ref.C11080482500。
- 『官房機密 第1310号 14.12.15昭和6年(教育)年度艦船役務予定の件』。Ref.C05021175900。
- 『支那事変 第8回功績概見表綴 駆逐隊 潜水隊 水雷隊 掃海隊 海軍武功調査/第28駆機密第19号の200 第28駆逐隊支那事変第8回功績概見表』。Ref.C14120971500。
- 『支那事変 第8回功績概見表綴 駆逐隊 潜水隊 水雷隊 掃海隊 海軍武功調査/29駆隊機密第34号の101 第29駆逐隊支那事変第8回功績概見表』。Ref.C14120971600。
- 『支那事変第9回功績概見表綴 海軍武功調査/支那事変第9回駆逐隊功績概見表/29駆隊機密第34号の129 第29駆逐隊支那事変第9回功績概見表』。Ref.C14120980600。
- 『支那事変 第9回功績概見表綴 海軍武功調査/支那事変第9回駆逐隊功績概見表/第30駆機密第48号の36 第30駆逐隊支那事変第9回功績概見表』。Ref.C14120980700。
- 『支那事変第10回功績概見表綴/支那事変駆逐隊第10回功績概見表/29駆隊機密第34号の285 第29駆逐隊支那事変第10回功績概見表』。Ref.C14120989400。
- 『支那事変第10回功績概見表綴/支那事変駆逐隊第10回功績概見表/第30駆隊機密第40号 第30駆逐隊支那事変第10回功績概見表』。Ref.C14120989500。
- 『昭和16年12月1日〜昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030018200。
- 『昭和16年12月1日〜昭和16年12月23日 第6水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030120000。
- 『昭和16年12月1日〜昭和16年12月23日 第6水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030120100。
- 『昭和16年12月1日〜昭和16年12月23日 第6水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030120200。
- 『昭和16年12月1日〜昭和16年12月23日 第6水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030120300。
- 『昭和16年12月1日〜昭和17年1月31日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報 AA攻略作戦(1)』。Ref.C08030057600。
- 『昭和16年12月1日〜昭和17年1月31日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報 AA攻略作戦(2)』。Ref.C08030057700。
- 『昭和16年12月 大東亜戦争経過記録/作戦経過概要第6号〜8号』。Ref.C16120682300。