白峯神宮 | |
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拝殿 | |
所在地 | 京都府京都市上京区今出川通堀川東飛鳥井町261 |
位置 | 北緯35度01分49秒 東経135度45分11秒 / 北緯35.03028度 東経135.75306度座標: 北緯35度01分49秒 東経135度45分11秒 / 北緯35.03028度 東経135.75306度 |
主祭神 |
崇徳天皇 淳仁天皇 |
社格等 |
旧官幣大社 別表神社 |
創建 | 慶応4年(1868年) |
札所等 | 京洛八社集印めぐり |
例祭 |
4月14日(淳仁天皇祭) 9月21日(崇徳天皇祭) |
地図 |
白峯神宮(しらみねじんぐう)は、京都市上京区東飛鳥井町にある神社。配流されてその地で歿した崇徳天皇・淳仁天皇を祀る。旧名白峯宮(しらみねぐう)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
白峯神宮の社地は、蹴鞠の宗家であった堂上家(公家)である飛鳥井家の屋敷の跡地である。摂社の地主社に祀られる精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされ、サッカーをはじめとするスポーツ関係者の参詣も多く、社殿前にはサッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などから奉納されたボールなどが見られる[1]。毎年4月の「春季例大祭」と7月の「精大明神例祭」には、天下泰平・国家安泰・五穀豊穣を祈って、白峯神宮で蹴鞠保存会による蹴鞠が奉納されている。[2]
スポーツにちなんだお守りが有名で、叶う輪(かなうわ)という縁起物がある。
崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐国に流され、長寛2年(1164年)旧暦8月26日その地で崩御した。その後天変地異が相次いだことから上皇の祟りとされ、上皇が葬られた白峯陵(現・香川県坂出市)の隣に、上皇の菩提を弔う為に府中の木丸殿が移築され法華堂(現・頓証寺殿)として建立された。また朝廷の命により以後、白峯寺による供養会が営まれるようになった。
時代は下って、幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じ、慶応2年(1866年)旧暦11月16日に白峯宮の建設が始まるが、まもなく崩御した。その遺志を継いだ子の明治天皇は慶応3年旧暦1月9日践祚、慶応4年(1868年)旧暦8月18日に白峯宮の創建を宣命し、勅使を白峯陵に送り上皇の命日の旧暦8月26日に宣旨を読みあげさせ、その翌日に即位した。その勅使により同年旧暦9月6日上皇の御霊が讃岐国から京都に到着し、頓証寺殿(旧:法華堂)の本尊であった崇徳上皇僧形座像図を当宮に移し、翌日、明治天皇が親拝した。なお、その翌日の旧暦9月8日に明治に改元されている。初代宮司には讃岐国白鳥神社の神職家の猪熊夏樹が就いた。
1873年(明治6年)、藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路国に配流され、その地で崩御した淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊を淡路島から迎えて合祀し、官幣中社とした。
1940年(昭和15年)8月1日に官幣大社に昇格し、神宮の号を許され白峯神宮と改称した。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
元禄時代に起源を持つ少女の踊り。近代に入って中絶したが、1962年(昭和37年)に復活した。毎年7月7日に元禄風の衣装、髪型、舞台化粧と同様の厚化粧をした小学生位の少女多数が優雅に可憐に舞い踊る。祇園祭でも、10日の、お迎え提灯では小学生位の少女が、24日の花笠巡行では祇園東の芸舞妓が、いずれも元禄風の衣装、髪型、舞台化粧と同様の厚化粧で、典雅に可憐に舞い踊る。
白峯神宮の蹴鞠保存会によって、毎年4月14日(春季例大祭・淳仁天皇祭)と7月7日(精大明神例祭・七夕祭)に奉納蹴鞠が行われている。