白川 方明 | |
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第30代 日本銀行総裁 | |
任期 2008年4月9日 – 2013年3月19日 | |
首相 | 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 安倍晋三 |
前任者 | 福井俊彦 |
後任者 | 黒田東彦 |
個人情報 | |
生誕 | 1949年9月27日(75歳) 福岡県北九州市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京大学経済学部卒業 シカゴ大学大学院修了 |
署名 |
白川 方明(しらかわ まさあき、1949年(昭和24年)9月27日 - )は、日本の中央銀行家、経済学者(金融政策・決済システム)。2008年(平成20年)に、第30代日本銀行総裁に就任、2013年(平成25年)に辞任。その後、青山学院大学の特任教授に就任。
学位は経済学修士(シカゴ大学)。日本銀行審議役、日本銀行理事、京都大学大学院公共政策教育部教授、東京大学金融教育研究センター客員研究員等を歴任した。日本銀行総裁退任後、2013年9月1日付で、青山学院大学国際政治経済学部特任教授に就任[1]。
福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)出身[2]。福岡県立小倉高校、東京大学経済学部卒業。シカゴ大学大学院(経済学専攻)修了。東大時代、旧民社党系シンクタンクである民主社会主義研究会議(民社研)に所属し、活動。経済学部では小宮隆太郎ゼミに属した。
1972年(昭和47年)4月日本銀行入行。シカゴ大学大学院経済学修士。シカゴではミルトン・フリードマンの授業を受けた[3]。その後、大分支店長、ニューヨーク駐在参事などを歴任。2002年(平成14年)7月 日本銀行理事(金融政策担当)に就任。2006年(平成18年)まで4年間務める。
2006年(平成18年)7月、京都大学大学院公共政策教育部(いわゆる公共政策大学院)にて教授に就任し、2008年(平成20年)3月まで務めた。また、東京大学の金融教育研究センターにて客員研究員も兼任した。
2008年(平成20年)3月13日、日本銀行副総裁として国会の同意が得られたため、3月19日の持ち回り閣議を以て、日本国政府より日本銀行副総裁に正式に任命された。
かつて日本銀行総裁は、大蔵省OBと日銀叩き上げが交代で務める「たすきがけ人事」が続いていたが、28代の速水優、29代の福井俊彦と2代続けて日銀OBが就任していた[4]。福井の任期満了に伴う次期総裁人事において、日銀の独立性が確保されるかが争点となる中、日本国政府が国会に提示した武藤敏郎(日銀副総裁)および田波耕治(国際協力銀行総裁)の総裁人事案は、ねじれ国会の野党が多数を占める参議院で否決され[4]、3月19日で総裁を退任した福井が3月20日付で副総裁に就任する白川を「次期日銀総裁が就任するまでの間、総裁の職務を代行する者」に指名した。これにより、白川は副総裁就任と同時に日本銀行総裁職務代行者となった。
白川方明は、日本銀行副総裁就任後直ちに総裁職の代行を務めたが、日銀総裁の空席による総裁代行の立場が長期間続くと、総裁代行という立場では内外の経済問題への対処が難しくなる恐れが指摘された。この間、モルガン・スタンレー証券のロバート・フェルドマン経済研究主席は、日銀総裁人事などの重要案件には「特定の基準に照らして開かれた議論」が望ましいと主張し、中央銀行マン・官僚・財界人ら19人を「マクロ経済学と独立性」「政策決定機関のトップをつとめた経験」「国内外のネットワーク」の3指標で採点した結果を「次期日銀総裁 -- 候補者を比較する」と題する調査報告書として発表した[5]。
最も評価が高かったのは、小泉純一郎内閣で経済財政担当相や金融相などを歴任した竹中平蔵と、日銀出身で金融研究所所長や経済協力開発機構(OECD)の副事務総長を務めた重原久美春で、武藤は「マクロ経済学と独立性」で17位、ほかの二つの基準で18位にとどまり、田波はいずれの基準でも最下位であった[6]。こうして、特に海外では重原久美春の日銀総裁就任を待望する声が高まったが、結局、既に総裁職務代行者であった白川が国会の同意を得て、2008年(平成20年)4月9日に、第30代日銀総裁に就任した。日銀総裁空白期間は20日間であった。2011年(平成23年)1月からは、国際決済銀行(BIS)副議長に就任。日本人のBIS副議長就任は、1939年(昭和14年)に加納久朗横浜正金銀行(現三菱UFJ銀行)ロンドン支店支配人が就任して以来のことで、日銀総裁としては初めてであった。
2013年(平成25年)2月5日、同年4月8日の総裁任期の5年満了を待たずして、3月19日付で日本銀行総裁を辞職することを表明した[7]。
経済学者の浜田宏一は、学生時代の白川を「数学やグラフを使って経済学を考えることが得意な人物であった」と語っている[10]。
学者肌の人物であり、過去の日銀総裁と比較して、政官界や財界とのパイプや交渉力などは未知数であるとの評もあったが、大学教授時代も現場復帰を熱望していたという。金融政策を担当する企画局勤務が長く、急な就任にも日銀トップとして違和感がないとされる。
金融政策を語り出すと止まらなかったり、「日銀の仕事は面白い」と語ることなどから、周囲から「趣味は金融政策」などと言われるが[11]、後輩の翁邦雄によれば、「趣味は金融政策というより中央銀行そのもの」であり、狭義の金融政策を超えて、日銀機能の強化といった課題にも意欲を燃やしているという[12]。ミルトン・フリードマンの『A Monetary History of the United States』を愛読書の一つだと述べている[13]。他に趣味としてバードウォッチングを楽しむ[3]。
白川は日銀総裁退任の会見で、生まれ変わったらもう一度総裁に就くかと問われ「そうは思わない」と明確に否定し「とりあえずあすから自由の身になるので、バードウオッチングをしたい」と述べている[14]。
日本銀行総裁就任後の4年間、リーマン・ショックや東日本大震災、欧州債務危機に立て続けに見舞われ、リーマン・ショックの2年後から小出しに15回の金融緩和に踏み切り、5年の在任期間で資産買い入れ額を101兆円まで増額した(2013年末までの残高目標)[15][16]。白川は中銀としては異例の上場投資信託(ETF)や不動産投資信託(J-REIT)にまで買い入れ資産を拡大している[17]。
東日本大震災直後の2011年(平成23年)3月14日の定例記者会見で、「前代未聞の震災が起こった割には基金増額の規模や内訳がしょぼいのではないか」との声が出たのに対し「決してしょぼくない」と反論している[3]。
ゼロ金利政策、量的緩和政策に対しては、効果が「限定的」であるとしてきわめて批判的であった[18]。量的金融緩和について、京都大学教授時代に執筆した著書『現代の金融政策』で、「景気・物価に対する刺激という点で中心的な効果は時間軸効果であり、量の拡大はほとんど効果を発揮しなかった」としている[19]。また、白川は「FRBは流動性の供給を拡大しているが、物価を押し上げる力は乏しい」と主張している[20]。
日銀のマネタリーベースの増やし方は先進国で最大で、これだけ金融緩和をしても経済が成長していかないことの方が問題と指摘し、人口減少と高齢化の中で成長力をどう高めるかが課題との持論を持っている[21]。
2013年(平成25年)3月7日、金融政策決定会合後に記者会見で、金融緩和が効果を出すには「中長期的な財政規律が重要である」と強調し、政府に財政再建の取り組みを促している[22]。
白川方明は、日本のデフレーションの原因について
を挙げている[23]。また、白川は「デフレには様々な定義があり、一概には定まらない」と指摘している[20]。
デフレ脱却には「生産性の向上」が必要であり、それには「民間企業と政策当局双方の努力が必要である」と強調し、政府は「企業が熾烈なグローバルな競争環境に置かれていることを踏まえて、さまざまな制度や仕組みを見直すことが重要である」と述べている[24]。
2009年(平成21年)11月20日、金融政策決定会合後の記者会で、「持続的な物価下落は、マクロ的需給バランスが緩和していること、言い換えると需要の弱さの結果として生じる現象」と指摘し、「需要自体が不足している時には、流動性を供給するだけでは物価は上がってこない」との考えを示した[25]。
2009年(平成21年)11月4日、白川は都内の講演で「物価下落が起点となって景気を押し下げる可能性は小さい」と述べている[26]。
2012年(平成24年)4月21日、米ワシントンで講演し「中央銀行の膨大な通貨供給の帰結は、歴史の教えにしたがえば制御不能なインフレーションになる」と述べた[27]。
白川は中央銀行の総裁という立場から、日本でハイパーインフレーションが起きる起きないということ自体に、言及することは不適切との考えを示している[28]。
2013年(平成25年)2月28日、日銀総裁在任中最後の講演で「多くの国民は単に物価だけが上がることを望んでいる訳ではない」とし、金融緩和による物価上昇による実質所得の低下などの副作用を懸念した[29]。
2013年(平成25年)3月19日、退任記者会見で、日銀が市場の期待に働きかけて物価上昇を目指す手法(リフレーション)について「期待に働きかけるという言葉が、中央銀行が言葉によって市場を思い通りに動かすということであれば、そうした市場観や政策観に私は危うさを感じる」と述べた[30][31][32]。
白川は「マネタリーベースを増やせば物価が上昇するという相関関係は断ち切られている」と指摘し、デフレの原因については「すべての経済現象を貨幣現象だけで説明できるわけではない」「金融緩和と供給面、構造面での努力が相まってデフレの根本的な問題に対処できる」と金融政策だけでデフレは克服できないとの考えを重ねて強調した[30][31][33]。
2014年(平成26年)5月13日、アメリカ合衆国のダートマス大学タック・スクール・オブ・ビジネスでの講義で「日本経済の主な問題はデフレではなく、人口動態である」と述べている[34]。また同講義で「デフレーションは極めて低い失業率の裏返しである」と述べている[34]。
2012年(平成24年)2月14日に、日本銀行が設立した中長期的な物価安定の目途1%について、「プラス2%で政策を運営すると、過去に経験のない事態が起きるので大変不確実性が高く、経済活動に悪影響を与える」「海外が2%だからといって日本も2%を目指すというのは間違い」と述べた[35]。
2009年(平成21年)11月3日、白川は講演で「インフレ誘導政策を採用すれば、様々な問題が起こる」「中央銀行はそのような政策は決して行わない」と述べている[36]。
2012年(平成24年)11月12日、都内の講演でインフレ目標について「物価も賃金も上がらない状況が長く続いた日本経済では現実的でない」と述べ、否定的な見解を示した。また、日本の消費者や企業では「物価は上がらないのが普通だという感覚」が定着していると述べた[37]。
「為替は金融政策によって変わる」というマネタリーアプローチは白川がシカゴから持ってきた理論である[10]。経済学者のハリー・G・ジョンソン、ジェフリー・フランケルの論文の「国際収支の不均衡は貨幣市場の不均衡によってもたらされ、調整は金融政策が有効である」という説を引用し[38][39]、マネタリーアプローチに基づく為替レートの実証分析についての論文を、留学して戻ってきた1970年代に発表している[40](白川方明「マネタリー・アプローチについて」『金融研究資料』第3号、1979年8月[38])。論文には「為替変動などの経済現象に対しては日本銀行の金融政策が有効である」と書き記している[39]。
2012年(平成24年)5月24日の衆院特別委員会で、2001年(平成13年)3月から2006年(平成18年)3月まで実施した、量的緩和政策の経験を踏まえ、「マネタリーベースが増えている時に円高になり、量的緩和解除後にむしろ円安になっている」と指摘し、量と為替に明確な相関を見出せないとの認識を示した[19]。
2013年(平成25年)2月28日、日銀総裁の任期中最後の講演で「(過去15年間にたびたび訪れた)円安局面でも潜在成長率は上昇しなかった」と指摘している[29]。
中央銀行が国債を引き受けないのは「国の形」だと表現し、引き受けた場合の副作用を厳しく警戒している[21]。
2013年(平成25年)1月9日の経済財政諮問会議で「日銀が財政ファイナンス(赤字の穴埋め)をしているという懸念をもたれないように、財政再建に取り組むことが重要だ」と述べている[41]。
自民党の安倍晋三総裁は、2012年(平成24年)11月に、インフレ目標2%を達成するまで、無制限な金融緩和をすべきと選挙公約し、政権を取ると直ちに、これまでの白川日銀とは大きく路線の違う量的金融緩和を日銀に実行させた[42]。これらにより、急速に円高が是正され、野田佳彦が衆議院解散を表明してから、5ヵ月で20円の円安が進んだ[43]。また、株価も急速に改善し、2013年(平成25年)5月15日には、5年4ヵ月ぶりに日経平均株価が15,000円台を回復した[44]。また、安倍は大胆な金融緩和のために、日銀総裁・副総裁の人事にも大きな影響力を行使した(#白川退任後の日銀体制)。
2012年(平成24年)、金融経済部門の優れたリーダーとして、日本人で初めて米国の「外交評議会(FPA)メダル」を受賞した[16]。
2012年(平成24年)12月3日、フランスの貴重な理解者であるとされフランス銀行のクリスチャン・ノワイエ総裁により、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエに叙された[45]。
2013年(平成25年)2月に行われた、辞任の発表を市場は歓迎し、日経平均株価は3%上昇したと一部では報道された。中央銀行総裁の辞任のニュースだけで、株価が3%も上がるというのは世界でも例がないことである[70]。ただし、辞任と株価変動と直接の関連は不明である。
白川と重なる時期に活動したベン・バーナンキFRB議長は、世界的な金融危機とその余波に対しては、即座にマネタリーベースを増加させるなど、きわめて大規模な量的緩和で果敢に対処し(マネタリーベースは最終的に約5倍)、白川とは対照的な行動をとった。また、フォワード・ガイダンスの手法も用いた。これらのことによって、バーナンキはアメリカ経済をいち早く回復させ、賞賛に値するとされている[71]。
また、藤原正彦は以下のように述べた[72]。「デフレ不況を十数年も放置してきた責任の大半は日銀にあるのだ。リーマン危機以来、アメリカは通貨供給量を三倍に増やすなど米英中韓その他主要国の中央銀行は猛然と紙幣を刷り景気を刺激した。日銀は微増させただけで静観を決めこんでいる。ここ三年間で円がドル、ユーロ、ウォンなどに対し三割から四割も高くなったのは主にこのせいだ。今すべきことは、日銀が数十兆円の札を刷り国債を買い、政府がその金で震災復興など公共投資を大々的に行い名目成長率を上げることだ。札が増えるから円安にもなる。工場の海外移転にも歯止めがかかる。ここ十四年間、経済的困窮による自殺者が毎年一万人も出ている。日銀は動かない。」
2013年(平成25年)3月、安倍首相は白川退任後、量的金融緩和に積極的な黒田東彦や岩田規久男を総裁や副総裁に採用した。長年、日本銀行を批判してきた黒田は、15年にわたる日本のデフレーションの責任の所在を問われると「責務は日銀にある」と明言している[73]。実際に、黒田はリーマン・ショック後に日銀の金融緩和が欧米より消極的だったことが円高の一因と指摘し、2013年4月、これまでになかった大規模な量的金融緩和策を発表、実行した(右図)。
2014年(平成26年)1月31日に発表された、12月消費者物価指数(除く生鮮、コアCPI)は前年比プラス1.3%と、黒田日銀の2014年度見通しに一致するところまで順調に上昇し、白川の主張したような「制御不能なインフレの発生」(上述)、「マネタリーベースを増やせば物価が上昇するという相関関係は断ち切られている」(上述)ことを示す現象は起こっていない[74]。
配信日 | タイトル |
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2012年11月20日 | 白川方明 日銀総裁会見まるごと配信 |
2012年12月20日 | 白川方明 日銀総裁会見まるごと配信 |
2013年1月22日 | 白川方明 日銀総裁会見まるごと配信 |
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