中華人民共和国 江蘇省 盱眙県 | |
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明祖陵・南紅門 | |
淮安市中の盱眙県の位置 | |
簡体字 | 盱眙 |
繁体字 | 盱眙 |
拼音 | Xūyí |
カタカナ転写 | シューイー |
国家 | 中華人民共和国 |
省 | 江蘇 |
地級市 | 淮安市 |
行政級別 | 県 |
面積 | |
総面積 | 2,430 km² |
人口 | |
総人口(2004) | 73.98 万人 |
経済 | |
電話番号 | 0517 |
郵便番号 | 221700 |
行政区画代碼 | 320830 |
公式ウェブサイト: http://www.xuyi.gov.cn/ |
盱眙県(くい-けん)は中華人民共和国江蘇省淮安市最南端に位置する県。独特の風味づけをしたザリガニ料理(簡体字:盱眙十三香龙虾、繁体字:盱眙十三香龍蝦)が盱眙県で最も著名な名物である。毎年夏に国際ザリガニ祭(簡体字:中国国际龙虾节、繁体字:中國國際龍蝦節)が開催されている[1]。
領内には史跡が多く、西部に唐・宋時代の有名な都市である泗州城があり、東部に漢時代江都国の東陽城もある。
秦朝により盱眙県が設置される。地名は県治が山頂に位置し「目を見張り(盱)」「じっと見る(眙)」ことに由来すると伝えられる。前漢になると盱台県と改称されたが、後漢になると再び盱眙県とされ、東晋では盱眙郡の郡治とされた。その後もこの地域の行政中心地とし宋代には招信軍軍治、元代には招信路路治が設置された。1278年(至元15年)には臨淮府の府治とされた。
明の創始者かつ初代皇帝である朱元璋が祖先を祀るために建造した陵墓である。1413年完成。多数の建物が含まれており、コノテガシワが植えられている。1680年頃、黄河の流れが変わり洪沢湖ができた際に一度水没したが、20世紀後半に湖の水が取り除かれ、再建された[2]。
泗州市は現在、江蘇省クイ県の淮河のほとりに位置しています。唐の時代から明の時代にかけて、黄河と長江の水運の中心地に位置し、陸と水の都市として知られ、現在の江蘇省と安徽省の広い地域を統治していました。淮河の両側と大運河の南港を守り、戦略的、交通的、経済的に優れた地位を占めています。 清朝康熙帝の治世19年(1680年)、洪水で沈没した。 [3]
碑文には、宋代の蘇軾、米芾、蔡元長、黄庭堅、楊万里、元代の趙孟頫などの作家、書道家、画家の筆跡が含まれています。
墓主は江都王劉非。ここでは、中国の 8 番目と 9 番目の金縷玉衣と、2 番目の玉棺が発掘された。
日中戦争の戦跡のひとつである。現在は、当時の形を残す古い建物と庭園の間に、現代建築の形で主体記念館が建てられている[4]。
青少年教育設備やホテルなどがある[5] 。
盱眙県ではザリガニの大規模な養殖がおこなわれており、その広報目的で、盱眙竜蝦博物館が建設された。また、国際ザリガニ祭開催のためのスタジアムも隣地に建設されている[6]。
中国地名の変遷 | |
建置 | 秦代 |
使用状況 | 盱眙県 |
秦 | 盱眙県 |
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前漢 | 盱台県 |
新 | 不明 |
後漢 | 盱眙県 |
三国 | 盱眙県 |
西晋 | 盱眙県 |
東晋十六国 | 盱眙県 |
南北朝 | 盱眙県 |
隋 | 盱眙県 |
唐 | 盱眙県 |
五代 | 盱眙県 |
北宋/遼 | 盱眙県 |
南宋/金 | 盱眙県 |
元 | 盱眙県 |
明 | 盱眙県 |
清 | 盱眙県 |
中華民国 | 盱眙県 |
現代 | 盱眙県 |