睿宗 李旦 | |
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唐 | |
第5代/第8代皇帝 | |
王朝 | 唐 |
在位期間 |
文明元年2月7日 - 載初元年9月9日 (684年2月27日 - 690年10月16日) 景雲元年6月24日 - 延和元年8月3日 (710年7月25日 - 712年9月8日) |
都城 | 長安 |
姓・諱 | 李旭輪→李輪→李旦 |
諡号 | 玄真大聖大興孝皇帝 |
廟号 | 睿宗 |
生年 |
龍朔2年6月1日 (662年6月22日) |
没年 |
開元4年6月20日 (716年7月13日) |
父 | 高宗 |
母 | 則天順聖皇后武氏 |
后妃 | 劉皇后 |
陵墓 | 橋陵 |
年号 |
文明 : 684年 景雲 : 710年 - 712年 太極 : 712年 延和 : 712年 |
睿宗(えいそう)は、唐朝の第5代・第8代皇帝。高宗の八男で、中宗の同母弟にあたる。
高宗の末子として寵愛を受けた。文明元年(684年)、兄の中宗が母の武則天によって廃位されたことにより即位した。その即位は武則天の傀儡であり、政治的な実権は皆無であった。載初元年(690年)、武則天が自ら皇帝に即位すると廃位された(武周)。
神龍元年(705年)、武則天の死の直前に中宗が復位し(唐の再興)、李旦は安国相王に封じられる。景龍4年(710年)にはその中宗が韋皇后により毒殺された後、韋后一派を三男の李隆基(玄宗)と協力して排除し、甥の李重茂(殤帝)を廃して再び帝位についた。延和元年(712年)、玄宗に譲位し太上皇帝を称した。開元4年(716年)、55歳で崩御した。