石井 桃子 (いしい ももこ) | |
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1950年代 | |
誕生 |
1907年3月10日 埼玉県北足立郡浦和町 (現・埼玉県さいたま市浦和区) |
死没 | 2008年4月2日(101歳没) |
墓地 | 新宿区の瑞光寺 |
職業 |
児童文学作家 翻訳家 編集者 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 日本女子大学校英文学科卒業[1] |
活動期間 | 1940年 - 2008年 |
ジャンル | 児童文学 |
代表作 |
著作 『ノンちゃん雲に乗る』(1951年) 『子どもと文学』(1960年) 『子どもの図書館』(1965年) 『幻の朱い実』(1994年) 翻訳 『熊のプーさん』(1950年) 『ピーターラビット』(1971年) |
主な受賞歴 |
芸術選奨文部大臣賞(1951年) 菊池寛賞(1953年) 子ども文庫功労賞(1984年) 日本芸術院賞(1993年) 読売文学賞(1995年) 朝日賞(2007年) 旭日中綬章(2008年) |
デビュー作 |
著作『ノンちゃん雲に乗る』(1951年) 翻訳『プー横丁にたった家』 A・A・ミルン(1942) |
ウィキポータル 文学 |
石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日[2] - 2008年4月2日)は、日本の児童文学作家・翻訳家。位階は従四位。日本芸術院会員。
「くまのプーさん」「ピーターラビットのおはなし」といった数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける[3]一方、絵本や児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した。
埼玉県北足立郡浦和町(後の浦和市、現:さいたま市)[2]常盤に兄1人姉4人のきょうだいの末っ子として生まれる[2]。生家は旧中山道沿いで金物店を営む旧家だった[2]。父は小学校教師を経て友人と銀行を興し、浦和商業銀行の支配人をつとめていた。
1913年4月、埼玉県立女子師範附属小学校(現在の埼玉大学教育学部附属小学校)入学[2][注釈 1]。当時としては珍しい学級文庫で巖谷小波の『世界お伽噺』などを楽しむ。1919年3月、同校卒業。同年4月、埼玉県立浦和高等女学校(現在の埼玉県立浦和第一女子高等学校)入学[2]。1923年3月、同校卒業。1924年4月、日本女子大学校(現日本女子大学)入学[2]。在学中から、菊池寛のもとで外国の雑誌や原書を読んでまとめるアルバイトをする。1928年3月、同英文学科卒業。仕事で知り合った犬養健と親しくなり、1929年信濃町の犬養家の書庫整理に従事する[2]。1930年から1933年まで文藝春秋社に勤め[2](同編集部に桔梗利一)、永井龍男のもとで『婦人サロン』『モダン日本』などを編集した。
1933年、犬養家でクリスマスイブに『プー横丁にたった家』の原書"The House at Pooh Corner"(西園寺公一から犬養道子や犬養康彦へのプレゼントだった)と出会い、感銘を受け、道子や康彦や病床の小里文子[注釈 2]のためにプーを少しずつ訳し始める。
1934年6月から1936年6月まで新潮社に勤務し、吉野源三郎や山本有三らと『日本少国民文庫』の編集にあたった[2]。1938年から荻窪に住む。同年、犬養家の書庫を借りて児童図書館・白林少年館を開設し[2]、1940年11月には白林少年館出版部を創設[2]、紙不足に苦しみつつ『たのしい川邊』(ケネス・グレアム作、中野好夫訳)を刊行[2]。同年12月、吉野の紹介により、岩波書店から『クマのプーさん』を翻訳出版[2]。しかし、時局の軍国主義化に伴って白林少年館は1941年に閉館を余儀なくされ、出版部も同年1月に刊行した『ドリトル先生「アフリカ行き」』(ヒュー・ロフティング作、井伏鱒二訳)を最後に事業を停止した。
1942年、初めての創作『ノンちゃん雲に乗る』の執筆を開始。食糧難から、1945年8月15日、宮城県栗原郡鶯沢村(現在の栗原市)で友人と共に開墾・農業・酪農を始める[2]。しかしやがて酪農組合の資金難に悩むようになり、岩波で『世界』編集長となった吉野や小林勇から再三編集の仕事を勧められたこともあり、1947年に上京を決意。1950年岩波書店に入社し[2]、『岩波少年文庫』の企画編集に携わる[2]。
1951年に藤田圭雄の紹介で光文社から刊行した『ノンちゃん雲に乗る』が第1回芸術選奨文部大臣賞を受け[2]、ベストセラーとなり[2]、1955年に鰐淵晴子主演で映画化される。
戦後児童文学界における業績を高く評価され、1954年、菊池寛賞受賞[2]。同年、内藤濯に「おもしろいから」と勧めて訳させた『星の王子さま』を岩波書店から刊行した。また、坂西志保の勧めでロックフェラー財団研究員として海外留学を決意[2]。1954年5月に岩波書店を退社し[2]、同年8月横浜港から渡米。船上で西川正身と知り合う。1955年6月、ヨーロッパを経て同年9月に帰国。
1957年、家庭文庫を始めていた村岡花子や土屋滋子たちと「家庭文庫研究会」を結成(1964年に解散)[2]。1958年、荻窪の自宅の一室に児童図書室・かつら文庫を開く[2]。この文庫の一番乗りはロックフェラー財団つながりで交友があった阿川弘之の長男尚之だった[4]。続いて長女佐和子も同文庫に通うようになる[4]。この取り組みはのちに『子どもの図書館』(1965年)にまとめられ、公共図書館への児童室の設置、民間の家庭文庫・地域文庫の普及に大きな影響を与えた。
1961年9月から北米とヨーロッパを旅行。同年11月、英国でエリナー・ファージョンと会う。1972年]カーネギー=グリーナウェイ・メダル授賞式に出席するため英国を訪問。1974年1月、盟友の松岡享子と約3年前から設立の準備を進めていた東京子ども図書館を設立する[2]。
1984年、第1回子ども文庫功労賞(伊藤忠記念財団)を受賞。1993年、日本芸術院賞受賞(子どもの本の世界における長年の貢献と業績に対して)[2]。1995年、約8年がかりの自伝的長篇小説『幻の朱い実』上・下(1994年、岩波書店)で読売文学賞受賞[2]。1996年、石井桃子奨学研修助成金(東京子ども図書館)が始まる。1997年7月、NHKテレビ『ETV特集 21世紀の日本人へ』に出演。同年12月、芸術院会員となる。1998年9月、『石井桃子集』全7巻(岩波書店)の刊行が始まる(1999年3月に完結)。
2008年、2007年度朝日賞受賞[2]。同年4月2日、老衰にて101歳で死去[2]。叙従四位・授旭日中綬章。生涯独身。
石井は1940年、『新潮』5月号の『走れメロス』で、初めて太宰治の名を知った。以前イギリスの本で読んだ『走れメロス』のモチーフであるメロスとセリヌンティウスの逸話に石井は感激したのだが、そのことを知人に話すと「きみ、そんな話、ほんとうにあるかね」と水をさされたことがあった。そのため、太宰の作品でこの逸話がモチーフとなり「ほんとうにうれしく思った」という[5]。同年、井伏鱒二の家で太宰と偶然同席した石井は太宰から「ちょっとつかみどころもないほどやわらかい感じの、私には少年のように若々しく思えた人」という印象を受けた。井伏によると、「それから後は当分の間、太宰は桃子さんにあこがれるやうになつてゐた」という[6]。あるとき石井が自宅の庭にある白樺の木を薪にするため奮闘していると、その姿を井伏に目撃された。井伏がその時のことを太宰に話すと、「素敵ですね」「いつぺん桃子さんのところに、僕を連れてつてくれませんか。でも、僕は他意ないんだがなあ」と太宰は言った[7]。井伏によると、太宰は石井を念頭に置いて「僕は恋愛してもいいですか」と井伏に相談し、井伏から「そんなことは君の判断次第ぢやないか」と返答され、「やつとそれで安心した」と言ったことがあるという[8][注釈 3]。後に井伏は「太宰君がね、あなたのこと、あの人、えらい人ですねって言ってましたよ」と伝え、石井を笑わせた。酒を飲まない石井の家にベルモットがあることを知った井伏が太宰を連れて石井宅を訪問したこともあった。戦後まもなく石井が宮城県で農業を営んでいた頃、井伏への手紙のついでに「太宰さんも東北ですね」と書いたところ、当時青森県の実家に身を寄せていた太宰の住所を井伏から知らされた。しかし農業に忙殺されていた石井は太宰に連絡を取ることができなかった。
1948年に太宰が情死した後、石井は井伏から話を持ち出されないのに太宰の噂話をし、主に太宰の小説について印象を語った[9]。そのとき井伏は「この女性が、太宰のあこがれてゐたのを意識して話してゐるものと解釈した」[9]。そこで井伏が「『すつぱりして、気持ちのいい男でしたね』と云ふと、『ほんとよ、いい人でしたわ』と桃子さんは、わが意を得たといふやうに答へた」[10]。一方、石井は井伏に向かって「友情って、結局、そこまでは繋ぎとめられないものなんですね」と責めるように言ったとも回想している。そのとき井伏は「太宰君、あなたがすきでしたね」[注釈 4]と言ったため、石井は驚いて「『はァ』と笑うような、不キンシンな声をだしてしまった」後、「それを言ってくださればよかったのに。私なら、太宰さん殺しませんよ」と答えた[注釈 5][注釈 6]。すると井伏は「だから、住所知らしたじゃありませんか」と言った。