人物情報 | |
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生誕 |
1929年10月10日![]() |
死没 | 2010年2月12日 (80歳没) |
出身校 | 早稲田大学・東京外国語大学・チュラーロンコーン大学 |
学問 | |
研究分野 | 歴史学(東南アジア史) |
研究機関 | 京都大学東南アジア地域研究研究所・神田外語大学 |
学位 | 法学博士 |
石井 米雄(いしい よねお、1929年10月10日[1] - 2010年2月12日[2])は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授、神田外語大学名誉教授。文化功労者。専門は東南アジア史、特にタイ王国研究。
1929年、東京生まれ。1945年3月、山形県飽海郡高瀬村(元遊佐町)に疎開。疎開先の酒田中学校で学びつつ、帝国石油の油田で勤労動員に応じた。戦後の1947年東京に戻り、旧制早稲田第一高等学院(1949年学制改革後、早稲田大学に移行)に入学するも、東京工業大学の言語学者小林英夫の言語学講義にのめり込み、その中でその後に学び続けることになるタイ語やラテン語など言語研究やタイ語学者松山納など研究者と出会うことになった。しかし、早稲田大学での学業は進まず、除籍されることになる[3]。1953年4月、東京外国語大学外国語学部第三類シャム語学科に入学。1955年に公務員試験に通り、外務省外務事務官に採用されたため、同大学を中退[4]。1955年外務省アジア局第4課に配属。その後、官房長付となり、来日要人の応対を行っていた。
1957年、在タイ日本国大使館勤務の外務省留学生として、バンコクにあるチュラーロンコーン大学文学部に留学[4]。大学ではタイの言語・民俗学者ヨン・サティアンゴーセート(プラヤー・アヌマンラーチャトン)らからタイ地域研究の薫陶を受けた。1958年にはタイの改革派仏教宗派タンマユットニカーイ本山ワット・ボーウォーンニウェートで3ヶ月間の出家を行い、「ジナナヌゴー」の僧名を授かる。同年、日本大使館に勤務し[4]、1963年に日本に帰国[4]。帰国後、南西アジア課タイ班に所属し、タイ関連の政務に携わる。
1965年、京都大学東南アジア研究センター(現:京都大学東南アジア地域研究研究所)助教授に就任し[4]、1963年に創設したばかりのセンターの整備に尽力。1968年より同教授[4]。1973年には外務省の調査員としてロンドン大学アジア・アフリカ研究学院 (SOAS) に研究留学。1981年に「上座部仏教の政治経済学―国教の構造」を京都大学に提出して法学博士を取得。同書は、タイ仏教に関する名著として、各国で広く読みつがれている[1]。
1990年、上智大学アジア文化研究所教授[4]、京都大学名誉教授[4]。1997年、第3代神田外語大学学長[5]、人間文化研究機構機構長、国立公文書館アジア歴史資料センター長。2010年2月12日、肝不全のため死去[6]。
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