石原 純 (いしわら あつし(じゅん)) | |
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生誕 |
1881年1月15日 日本 東京府本郷区(現・東京都文京区本郷)[1] |
死没 |
1947年1月19日(66歳没) 連合国軍占領下の日本 千葉県[2] 自動車事故による脳出血 |
研究分野 | 理論物理学 |
研究機関 |
早稲田大学 陸軍砲工学校 東北帝国大学 ミュンヘン大学 チューリヒ工科大学 |
出身校 | 東京帝国大学大学院 |
主な業績 | 相対性理論・量子論の研究 |
影響を 受けた人物 |
ゾンマーフェルト ラウエ アインシュタイン |
主な受賞歴 | 帝国学士院恩賜賞(1919年) |
補足 | |
プロジェクト:人物伝 |
石原 純(いしわら あつし(じゅん)、1881年1月15日 - 1947年1月19日)は、日本の理論物理学者・科学啓蒙家・歌人。弟は石原謙[3]。歌人としての名義は石原 阿都志(あつし)[1]。歌人の原阿佐緒との不倫が報じられ、東北帝国大学を辞職したことでも知られる。
東京府出身。日本基督教会本郷教会牧師石原量、母ちせの長男として生まれる。キリスト教学者・石原謙は弟。郁文館中学、一高を経て、1906年7月 東京帝国大学理科大学を卒業し、同学大学院で長岡半太郎に学ぶ。1908年4月に陸軍砲工学校教授、1911年5月に東北帝国大学助教授となる。1912年3月から1914年5月にかけてヨーロッパに留学し、アルノルト・ゾンマーフェルト、マックス・プランク、アルベルト・アインシュタインらのもとで学ぶ。帰国後、教授に昇任[4]。1922年には、アインシュタインの来日講演の通訳をした。日本に相対性理論を紹介するなど、物理学の啓蒙に大きな役割を果たした。1931年から雑誌『科学』(岩波書店)[5]の初代編集主任を務めた。
歌人としては、一高時代に正岡子規『歌よみに与ふる書』を読んだことをきっかけに伊藤左千夫に入門し、『アララギ』の発刊に参加。初期の主要同人となった。1917年にアララギの同人である歌人・原阿佐緒と知り合い、妻子ある身ながら求愛するも、石原の東北帝大理学部の教え子(真山孝治)と付き合っていた阿佐緒に拒絶されつづけ、1920年3月には自殺未遂し、見かねた三ヶ島葭子夫妻のとりなしで同年末に思いを遂げ、翌年より同棲を始める[6]。
1921年にこの恋愛事件が新聞報道され、「阿佐緒によって男女の真情を知った」と述べて妻子を捨て、大学を辞職[7][8]。1921年8月2日、閣議は、辞表提出中の東北帝大教授石原の休職を決定した(1923年に辞職)。以後は著作活動をおこなう。島木赤彦や斎藤茂吉の説得を受け付けず阿佐緒との同棲を続け、やがてアララギを脱会に至る。このスキャンダルはアララギを揺るがす問題となり、二人を擁護した古泉千樫や三ヶ島葭子までもがアララギを離れることとなった。
1922-23年、千葉県の保田海岸に西村伊作の設計で別邸「靉日荘」を建設し、阿佐緒と移り住む[9][8]。1924年、北原白秋、前田夕暮、釈迢空らが創刊した歌誌『日光』に阿佐緒や千樫らとともに参加した。唯一の歌集『靉日』では分かち書きや句読点を取り入れ、また海外詠の嚆矢といえる作品を発表。『日光』以降は自由律短歌の理論的推進者となった[10]。1928年、石原に新たに女性ができて阿佐緒が家を出[7]、1930年についに別れる[8]。阿佐緒の数寄屋橋の酒場の経営を引き継ぎ支えたが、1931年に売却[8]。
石原は西田幾多郎や九鬼周造にヴェルナー・ハイゼンベルクの不確定性原理をはじめとする当時最先端の物理学の知識を伝達したことでも知られている。西田はそれを時間と空間をめぐる考察に活かし、九鬼はそれを偶然性の考察に活かした[11]。また、田辺元も若い頃に石原から相対性理論を学んでおり、その過程で得た疑問に対する解答を『相対性理論の弁証法』で提示した[12]。
1945年12月に『科学』の編集のため上京した際、交通事故に遭って右腕骨折・全身打撲の重傷を負った(路上で意識不明の状態で倒れており、加害車両については不明)[4]。その約1年後に死去した。