破戒 | |
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作者 | 島崎藤村 |
国 |
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言語 | 日本語 |
ジャンル | 長編小説 |
発表形態 | 書き下ろし |
刊本情報 | |
出版元 | 自費出版(発売元:上田屋) |
出版年月日 | 1906年3月25日 |
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『破戒』(はかい)は、島崎藤村の長編小説。誰よりも早く自我に目覚めた者の悲しみという藤村自身の苦悩を主人公に仮託しつつ、社会的なテーマを追求した作品とされる。1905年(明治38年)、小諸時代の最後に本作を起稿。翌年の1906年3月、「緑蔭叢書」の第1編として自費出版。
藤村が小説に転向した最初の作品で、日本自然主義文学の先陣を切った。夏目漱石は、『破戒』を「明治の小説としては後世に伝ふべき名篇也」(森田草平宛て書簡)と評価した。
明治後期、信州小諸城下の被差別部落に生まれた主人公・瀬川丑松は、その生い立ちと身分を隠して生きよ、と父より戒めを受けて育った。その戒めを頑なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎を慕うようになる。丑松は、猪子にならば自らの出生を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもあるが、その思いは揺れ、日々は過ぎる。やがて学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、更に猪子が壮絶な死を遂げる。
その衝撃の激しさによってか、同僚などの猜疑によってか、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまう。そして丑松はアメリカのテキサスでの事業を持ちかけられ、ひとまず東京へと旅立つ。
ドストエフスキーの『罪と罰』に構成が似ていると、刊行当時から言われており、現在もこの説が主流だが、十川信介は、ユダヤ人問題を扱ったジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』との関連を示唆している。(十川『島崎藤村』筑摩書房、1977)
この作品(特に丑松が生徒に素性を打ち明ける場面)は、住井すゑの『橋のない川』でも取り上げられ、誠太郎をはじめとする登場人物の間で話題に上っている。この中で誠太郎は、丑松が素性を打ち明ける際、教壇に跪いて生徒に詫びていることを批判的に捉えている。
自費出版されたこの作品は、1913年4月、高額(当時の2,000円)で新潮社が買い取り出版した。次に出版されたのは1922年2月で、『藤村全集』第3巻(藤村全集刊行会)に収録された。藤村は巻末に「可精しく訂正」したとしているが、実際には多少の語句の入れ替えを行ったのみであった。
1929年には、『現代長編小説全集』第6巻(新潮社)の「島崎藤村篇」で「破戒」が収録された。ここにおいては、藤村はこの作品を「過去の物語」としている。これは当時、全国水平社が部落解放運動を展開し、差別的な言動を廃絶しようとする動きがあったことを意識している。これも一部の組織から圧せられて、やがて絶版になったという。水平社は後に言論の圧迫を批判し、『破戒』に対しても「進歩的啓発の効果」があげられるとし、評価している。そして1938年に、「『破戒』の再版の支持」を採択した。
こうして翌年『定本藤村文庫』第10篇に「破戒」が収録されたが、藤村はその際に一部差別語などを言い換えたり、削除している。これを部落解放全国委員会が、呼び方を変えても差別は変わらないとして批判した。1953年、『現代日本文学全集』第8巻(筑摩書房)の「島崎藤村集」に、初版を底本にした「破戒」が収録された。委員会は、筑摩書房の部落問題に悩む人々への配慮のなさを指摘し、声明文を発表した。1954年に刊行された新潮文庫版『破戒』も、1971年の第59刷から初版本を底本に変更している。
この作品の登場の4年前に、被差別部落出身でありながら「出自」を正々堂々明らかにしていたといわれる兵庫県柏原中学校校長の大江礒吉が死去した。大江礒吉は、1868年生まれで、島崎藤村と同じく長野県出身である。
島崎藤村の小説「破戒」の登場人物のモデルとしている文献やサイトがある。
瀬川丑松のモデルとしては、最後に「出自」を明らかにして許しを請う行為は、大江礒吉のイメージにそぐわないという意見もある。
被差別部落出身の地域政治家の猪子蓮太郎のモデルとしている文献もある。正々堂々と「出自」を公表した態度は、教育者としての大江礒吉と共通するものがある。
土屋銀之助は、諏訪高島小学校の教諭であった青年時代の伊藤長七がモデルである。
破戒 | |
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監督 | 木下惠介 |
脚本 | 久板栄二郎 |
製作 | 小倉浩一郎 |
出演者 |
池部良 桂木洋子 |
音楽 | 木下忠司 |
撮影 | 楠田浩之 |
編集 | 相良久 |
製作会社 | 松竹京都 |
配給 | 松竹 |
公開 |
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上映時間 | 99分 |
製作国 |
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言語 | 日本語 |
『破戒』は、1948年公開の日本映画である。松竹製作・配給、モノクロ、スタンダード。
終戦直後、阿部豊監督が東宝で久板栄二郎の脚本、早坂文雄の音楽で映画化に挑んだ。丑松役に池部良、土屋銀之助役に大日方伝、お志保役に高峰秀子を迎えて撮影が行われたが、1948年に東宝争議が発生し、制作が中断された。その代わり松竹が木下惠介監督で製作を引き継いだ。丑松役は池部だが、お志保役は木下の前監督作『肖像』で映画デビューした桂木洋子を迎えた。そのほか民衆芸術劇場や俳優座の俳優を起用した。
原作は部落差別問題を中心に描いているが、本作はこの問題には深入りはせずに、丑松とお志保の恋物語として、抒情的に描かれている。第22回キネマ旬報ベスト・テン第6位。毎日映画コンクール監督賞、助演賞受賞。
発売日 | レーベル | 規格 | 規格品番 | 備考 |
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2012年7月25日 | 松竹 | DVD | DB-0616 | 木下惠介DVD-BOX 第二集 |
破戒 | |
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監督 | 市川崑 |
脚本 | 和田夏十 |
製作 | 永田雅一 |
出演者 |
市川雷蔵 藤村志保 三國連太郎 長門裕之 |
音楽 | 芥川也寸志 |
撮影 | 宮川一夫 |
編集 | 西田重雄 |
製作会社 | 大映京都 |
配給 | 大映 |
公開 |
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上映時間 | 118分 |
製作国 |
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言語 | 日本語 |
『破戒』は、1962年4月6日に公開された日本映画である。大映製作・配給、モノクロ、大映スコープ。併映は『裁かれる越前守』。
大映の時代劇スター・市川雷蔵の市川崑監督作3回目の主演作品で、『炎上』の吃音の青年役、『ぼんち』の女遍歴を重ねる息子役に続いて被差別部落出身の青年という難役を演じた。また、雷蔵の推薦で起用された藤村志保のデビュー作でもあり、芸名は原作の島崎藤村と演じた役のお志保から取っている。監督の市川崑にとっては、助監督時代に阿部豊監督や久板栄二郎、早坂文雄と一緒に長野県でシナリオハンティングまでやりながら東宝争議で実現しなかった原作の映画化である。元は大映の社長である永田雅一から、雷蔵主演で映画を1本作るよう企画の打診があり、日本テレビで同作のドラマ版の撮影を終えたばかりだった市川が映画化を提案した。永田自身は原作を知らなかったが、市川から勧められて日テレ版を途中から視聴して「あれは泣ける。ぜひやってくれ」と映画化を承諾したことで製作が開始された。
市川監督は、先に公開された木下監督の映画との違いを見せるために、木下版では控えられていた、登場人物の1人である猪子蓮太郎とその妻が抱える差別問題を主題にしたが、原作とは異なったアプローチで描かれており、「差別をするなと訴えるだけじゃなくて、自分たちがもっと自信を持てばいいじゃないか、ただ悲しむだけじゃなくて、もっと強くなれ、そしたらいつか同じ立場になる、というテーマを新しく付け加えた」[1]と後に証言している。また、主人公が壇上で教え子たちに自身の生い立ちを告白する場面は、直前に収録していたドラマ版で、子供たちの号泣で録音が難航した経験から、教え子たちの顔などをカットバックさせず、カメラを長回しの据え置きにした状態で撮影した主人公の告白場面に、教え子たちの啜り泣きを控えめに挿入するという、思い切った音響処理が採られている。
発売日 | レーベル | 規格 | 規格品番 |
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1994年9月9日 | 大映 | VHS | HTH-1211 |
2008年11月21日 | KADOKAWA | DVD | DABR-0493 |
2012年11月16日 | Blu-ray | DABA-90897 |
破戒 | |
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監督 | 前田和男 |
脚本 |
加藤正人 木田紀生 |
製作 | 東映 |
出演者 |
間宮祥太朗 石井杏奈 矢本悠馬 高橋和也 小林綾子 七瀬公 ウーイェイよしたか 大東駿介 竹中直人 本田博太郎 田中要次 石橋蓮司 眞島秀和 |
音楽 | かみむら周平 |
制作会社 |
東映京都撮影所 (協力)東映ビデオ |
製作会社 | 全国水平社創立100周年記念映画製作委員会 |
配給 | 東映ビデオ |
公開 |
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製作国 |
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言語 | 日本語 |
『破戒』は2022年7月8日に公開された日本映画[4]。監督は前田和男、脚本は加藤正人と木田紀生、主演は間宮祥太朗[4]。約60年ぶりに映画化された[5]。
発売日 | レーベル | 規格 | 規格品番 |
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2023年2月8日 | 東映ビデオ | DVD | DSTD20695 |
Blu-ray | BSTD20695 |
1954年6月4日18:15 - 18:45に、日本テレビで放送。
1961年1月22日20:00 - 21:00に、NETテレビ系列『NECサンデー劇場』枠で放送。
1961年11月3日 - 12月29日22:00 - 22:30に、日本テレビ系列『文芸アワー』枠で放送。全9回。
日本テレビの芸能局長をしていた作家の阿木翁助が、同局で『恋人』や『檸檬』といった単発ドラマの演出を手掛けていた市川崑にオファーをかけ、市川が原作のドラマ化を望んで映像化した。市川にとっては初の連続ドラマの演出作品となった[6]。