神峯寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 高知県安芸郡安田町唐浜2594 |
位置 | 北緯33度28分3.4秒 東経133度58分29.2秒 / 北緯33.467611度 東経133.974778度座標: 北緯33度28分3.4秒 東経133度58分29.2秒 / 北緯33.467611度 東経133.974778度 |
山号 | 竹林山 |
院号 | 地蔵院 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 十一面観世音菩薩 |
創建年 | (伝)天平2年(730年) |
開基 | (伝)行基 |
中興年 | 明治20年(1887年) |
正式名 | 竹林山 地蔵院 神峯寺 |
札所等 | 四国八十八箇所27番 |
法人番号 | 3490005005554 |
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神峯寺(こうのみねじ)は、高知県安芸郡安田町唐浜にある真言宗豊山派の寺院。竹林山(ちくりんざん)、地蔵院(じぞういん)と号す。本尊は十一面観音菩薩。四国八十八箇所第二十七番札所。
真っ縦(まったて)と呼ばれる急な山道を登った神峰山(標高569.9 m)の中腹(標高430 m付近)にあり四国八十八箇所で9番目の高さで高知県では一番である。「土佐の関所」また「遍路ころがし」と呼ばれる屈指の難所として知られ、江戸時代は麓の前札所[注 1]で遥拝し納経をすませる遍路もいたほどであった。
寺伝によれば神功皇后が朝鮮半島進出の戦勝を祈願し天照大神を祀った神社が起源とされ、天平2年(730年)に聖武天皇の勅を受けて行基が十一面観世音菩薩を刻み、本尊として神仏合祀し開創したという。その後大同4年(809年)に空海(弘法大師)が堂宇を建立し「観音堂」と名付けたとされている。
その後、堂塔が多くあったが、元和年間(1615年 – 1624年)火災によりすべて焼失、その後、本堂と大師堂と鎮守社のみ再建され[1]、十一面観音も麓にあって廃寺になっていた別当の神峯寺から納めて復調する。しかし、険しい山中の札所ゆえ別当になっていた麓の常行禅寺や前札所の養心庵(明治の神仏分離時点でどちらも廃寺)で遥拝し納経するものも多かった。なお、江戸末期、常行禅寺での納経帳に「奉納 本尊十一面観音 土州竹林山 神峯」と記されている。
幕末、三菱財閥創始者岩崎弥太郎の母は弥太郎の開運を祈願して現在の安芸市より片道20キロメートルの道のりを素足で三七日(21日間)通い続けた逸話がある[2]。
明治初年の神仏分離令によって神峯神社だけが残り寺院としての部分は廃寺となり、本尊と札所は金剛頂寺に預けられ、金剛頂寺で納経をしていたが、1887年(明治20年)もとの憎坊跡に堂舎を建立し本尊と札所を帰還させ再興した。1912年(大正元年)には茨城県稲敷郡朝日村の真言宗地蔵院の寺格を移した[3]。そして、昭和に入って、それまでの神峯から神峯寺と称するようになった[4]。
1975年(昭和50年)頃、当寺へは東から悪路の開拓道路を約8 kmタクシーに乗車し残り30分山道を歩くか、麓からの急峻な遍路道を登るしか行きつけなかった。同年1月、二代新住職になった南寛彦[注 2](みなみかんげん、平成26年9月遷化)は着任するや開拓道路からの徒歩道を小松直幹(公務員を退職後、神峯神社総代および当寺役員)と共に整備していたが、直接麓から当寺へ上がる車道を作ることを発願し、小松を理事長にして神峯道整備事業団を結成し、参拝に来て事情を知った宮地達観(土佐清水市、建設業社長)の協力も得て、同年10月より工事が着手された[5]。その3人と4名の作業員との7名で作業にかかり、2年後の12月一応の完成を見たが、その後数年間、神峯道は同住職が日夜作業にあたり改良を重ねられた。その後、平成元年神峯道は町へ町道として無償提供された。そして、平成23年には麓から中腹まで片側1車線の広域農道が開通し神峯道とつながった。
道路が完成した後、同住職は、当寺を厚く信仰していた手島豊(小松の元同僚)の奉仕を得て、新大師堂周辺や本坊周辺および斜面の庭園を自らユンボに乗り整備した。
仁王門をくぐると左に手水場が、その先右側に鐘楼が、左側に庫裏・納経所があり、石段手前の右側に神峯の水が湧く。石段を上りきって左に行くと聖観音堂がありその左に本堂が、戻って右に進むとリアルな不動明王像の前を通り大師堂の裏に出る。