いなもり かずお 稲盛 和夫 | |
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2011年 | |
生誕 |
1932年1月21日 鹿児島県鹿児島市薬師町[1] |
死没 |
2022年8月24日(90歳没) 京都府京都市伏見区 |
出身校 | 鹿児島大学工学部 |
職業 | 実業家 |
影響を受けたもの |
西枝一江 西片擔雪 西郷隆盛 中村天風 松下幸之助 |
影響を与えたもの |
永守重信 任正非 馬雲 |
稲盛 和夫(いなもり かずお、1932年〈昭和7年〉1月21日[注 1] - 2022年〈令和4年〉8月24日[2])は、日本の実業家、技術者。京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者。公益財団法人稲盛財団理事長。「盛和塾」塾長[3]。日本航空名誉会長。
1932年(昭和7年)、鹿児島県鹿児島市薬師町に7人兄弟の次男として生まれる。父の畩市は「稲盛調進堂」という名で印刷工場を経営していた。西田尋常高等小学校(現在の鹿児島市立西田小学校)を卒業し[1]、私立鹿児島中学校(旧制、現在の鹿児島高等学校)へ進む。銀行就職を考えたが周囲の勧めで[要出典]、旧制鹿児島中学校から新制鹿児島市高等学校第三部に進学[5]。1950年に鹿児島市高等学校第一部と第三部の普通科が統合されて鹿児島県玉龍高等学校(市立)となったため、翌年3月に同校の第一期生として卒業する[5]。大阪大学医学部薬学科の受験に失敗し、当時は新設大学であった鹿児島県立大学(後年鹿児島大学に統合)の工学部応用化学科で、有機化学を専攻した[5]。
1955年(昭和30年)、鹿児島県立大学工学部を卒業。当時は就職難であり、旧帝大卒でも苦労するほどの就職難であり、新設大学の卒業生は相手にされなかった[6]。そこで専攻を無機化学に変更し、教授の紹介でがいしメーカーの松風工業(歯科器材の松風とは創業者が同じ別会社[7])に入社した[6]。会社は労働争議でひどい状況であったが、担当になった磁器の研究に没頭し成果を上げた[8]。これが会社の業績に繋がったが、技術開発の方針で上司と衝突したことをきっかけに、稲盛が会社に頼んで採用したメンバーを引き連れて1958年(昭和33年)12月に退社、新会社を設立する[9]。
1959年(昭和34年)松風工業の部下8人を引き連れ京都セラミツク(現・京セラ)を京都市中京区西ノ京原町で創業する。
1966年(昭和41年)代表取締役社長に就任。
1966年(昭和41年)稲盛自ら渡米し、IBMよりSystem/360に使われるIC用アルミナ・サブストレート基板を受注することに成功させる[10]。
1968年(昭和43年)優良中小企業として第1回中小企業研究センター賞(現·グッドカンパニー大賞)を受賞。
1971年(昭和46年)創業12年で大阪証券取引所に株式上場。
1972年(昭和47年)「大規模集積回路用セラミック多層パッケージの開発」により、第18回大河内記念生産特賞を受賞。
1972年(昭和47年)東京証券取引所市場に株式上場をはたす。
1973年(昭和48年)京都セラミックが音頭をとり、日米合併企業となるジャパンソーラーエナジー(JSEC)を設立。
1974年(昭和49年)「電子回路用セラミック積層技術の開発」により、第16回科学技術庁長官賞を受賞。
1984年(昭和59年)稲盛が音頭を取り国による通信事業自由化が決定すると、京セラが資金を投入し民間初となるDDIを設立。(後にケイディディや日本移動通信と合併し、現在のKDDIとなる)。
1988年(昭和63年)日本セラミックス協会会長に就任[11]。
1998年(平成10年)複写機メーカーの三田工業が 経営に行き詰まり会社更生法の適用を申請した際、三田工業からの要請により、京セラは三田工業の支援を表明した。2000年の更生計画認可を受けて同社を「京セラミタ株式会社」に商号変更し、京セラの子会社とした。そして、9年間の予定の更生計画を2年間で達成した。
2009年(平成21年)ワールド・アントレプレナーシップ・フォーラムで世界起業家賞を受賞[12]。
2010年(平成22年)2月 日本航空会長に無報酬で就任する。「JALフィロソフィ」の策定など積極的な社員の意識改革に取り組み、全従業員の3分の1にあたる1万6千人のリストラを断行して、着任の翌期には営業利益1800億円の高収益企業に生まれ変わらせることに成功。赤字続きだった日本航空を3年足らずで再上場させた。
伊丹空港を視察した時、カウンター勤務の若い女性社員が月2千円のコスト削減効果を発表した。金額の少なさに周囲は困惑したが、稲盛氏は「そういう努力が一番大事なんだ」と大いに褒めた。この話はメールで部署を超えて広まった。—【経営の視点】稲盛氏が褒めた「2000円節約」(塩田宏之)『日本経済新聞』2018年1月15日)
2022年8月24日(水曜日)午前8時25分、老衰のため、京都市伏見区の自宅で死去した[2]。90歳没[13]。
稲盛の死去について、京セラ以外にKDDI[14] や日本航空[15] などがコメントを出し、中華人民共和国外交部は定例会見で稲盛に哀悼の意を表明した[16]。9月3日にサンガスタジアム by KYOCERAで開催された京都サンガF.C.の公式戦の試合前に黙祷が行われた[17][18]。
大学では当初有機化学を専攻したが、就職のために無機化学に変更し、がいしメーカーに就職したことが転機となった[6]。
松風工業では研究課に配属され磁器の研究に没頭し、高周波絶縁性の高いフォルステライトの開発に成功。それまでブラウン管に使う絶縁用部品「U字ケルシマ」は輸入に頼っていたが、フォルステライトにより国内での量産が可能となり、松下電子工業からの注文で特磁課(研究課から改称)は会社の収益部門となった[19]。
これらの技術が京セラの設立に繋がった[19]。
その独特な経営管理手法は「アメーバ経営」と呼ばれる。稲盛は全国に支部を持つ盛和塾と、PHP研究所や致知出版社などの出版社から出版した多数の経営指南書・自己啓発書を通じ、アメーバ経営や自らの経営哲学・理念の啓蒙・普及に努めている。また、その稲盛和夫の企業精神は世界のモーター業界で世界一のシェアを持つに至った、ニデック創業者の永守重信らにも多大な影響を与えた[20][21]。稲盛哲学を中国に広め、中国人経営者の心を高めるために「稲盛和夫管理顧問有限公司」を北京に設立しており[22]、中国でベストセラーになった稲盛の著書も多い[23]。また京セラ創業者でもある稲盛名誉会長が死去した際には、中国共産党系国際紙環球時報などの中国メディアでも、日本の報道を引用する形で速報で取り上げられるなど影響力の大きさをうかがえた[24]。
企業家の育成にも力を注ぎ、1983年には若手経営者の勉強会「盛友塾(現:盛和塾)」を開塾。1984年に財団法人稲盛財団を設立して理事長に就任。1985年には同財団主催の京都賞を創設し、同年第1回授賞式で三笠宮崇仁親王夫妻やスウェーデン王国シルヴィア王妃列席の下、ノーベル財団に特別賞を授与した[25]。稲盛財団の現在の資産総額は1,108億円で、民間で設立された財団法人としてはトップ5に入っている[26]。なお、盛和塾は自身が高齢になり積極的な活動ができなくなったことや従来から自身の一代限りで活動を終了させると表明していたことから2019年末をもって活動を終える予定である[27][28][注 2]。
1986年には京セラ会長に就任。1994年5月から1995年5月まで関西経済連合会副会長を務めた。1994年にはDDIポケット企画(ウィルコムの前身で後に関連会社のイーモバイルとともにソフトバンクグループが買収して現在ではワイモバイル)を設立。
母校の鹿児島大学に個人資産を寄附して大学キャンパス内に新しいホール「稲盛会館」(建築家安藤忠雄が設計を担当)を寄贈したほか、稲盛アカデミーへの援助を行なう。また地域社会はもとより国際社会において21世紀の更なる学術・文化の発展に貢献していくことを目的として、京都大学や九州大学の学術・文化趣旨に賛同し、稲盛財団記念館を寄贈竣工したほか、2013年11月、京都府に次世代を担う若者の創造教育の為に20億円を寄付し、2014年に完成した大学施設は稲盛記念会館と名付けられた[30]。関西鹿児島県人会総連合会会長も務める[31]。
2016年には郷里の鹿児島県と鹿児島市にそれぞれ10億円、計20億円を寄付した[32][33]。
幼少時に郷里の鹿児島で祖母の「隠れ念仏」を行う姿を見て宗教に関心を持ち、1997年(平成9年)に臨済宗円福寺の西片擔雪の下で在家得度(法名:大和)。雲水と共に修行を重ねた[34] [35] [36]。円福寺本堂と庫裏の建て替えに寄進したり、京都市と京都仏教会とを仲介したりするなど、居士としての活動も行なった[37]。
小沢一郎とは新進党時代からの仲であり、後の民主党を支持して、前原誠司の後援者ともなった[注 3]。しかし、2011年2月8日、日本記者クラブで会見し、政権交代後の民主党の体たらくに落胆した、政権交代も民主主義の結果であるが、色んなことが起きて新たな政治体制もできあがるだろう、歳もとったので今後は党への支援には距離を置き静観すると述べた[38]。2012年には小沢とともに日本未来の党の結党に参加、「びわこ宣言」の賛同人に名を連ねた。また、2018年の国民民主党、さらに2020年の国民民主党結党後も前原の東京後援会の代表者をしている[39][40]。
2010年1月に日本航空 (JAL) の代表取締役会長として日航再建に取り組むよう、鳩山由紀夫首相(当時)から要請された。国土交通大臣の前原が鳩山に進言したことが就任の一つの理由とされる。2月1日からJALの会長を無給で務め、2012年に会社更生法の適用から2年で営業利益2000億円というV字回復を果し、建て直しに成功[41][42]。同年2月末、鳩山からは、非常勤の内閣特別顧問に任命された[注 4]。
2015年8月末に、世界での著書の累計発行部数が1000万部を突破した[23]。うち日本では約490万部を発行[48]。日本国外では中華人民共和国での発行が9割以上を占める[48](京セラ調べ)。
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