稲葉 真弓 | |
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ペンネーム |
倉田 ゆみ 倉田 悠子 |
誕生 |
平野 眞弓 1950年3月8日 愛知県海部郡佐屋町(現:愛西市) |
死没 |
2014年8月30日(64歳没) 東京都品川区 |
職業 |
小説家 詩人 大学教授 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京デザイナー学院名古屋校 |
活動期間 | 1973年 - 2014年 |
代表作 |
『エンドレス・ワルツ』(1992年) 『声の娼婦』(1995年) 『海松』(2009年) 『半島へ』(2011年) |
主な受賞歴 |
女流新人賞(1973年) 作品賞(1980年) 女流文学賞(1992年) 平林たい子文学賞(1995年) 川端康成文学賞(2008年) 芸術選奨文部科学大臣賞(2010年) 谷崎潤一郎賞(2011年) 中日文化賞(2011年) 親鸞賞(2012年) 紫綬褒章(2014年) |
影響を受けたもの
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ウィキポータル 文学 |
稲葉 真弓(いなば まゆみ、1950年3月8日 - 2014年8月30日)は、日本の小説家、詩人。本名は稲葉 眞弓(読みは同一。旧姓は平野)。
愛知県海部郡佐屋町(現:愛西市)生まれ。愛知県立津島高等学校卒業。
西脇順三郎の作品に衝撃を受けたことがきっかけで、高校在学時より詩作を始める。 1966年、高校2年生の時に文藝春秋が全国の高校生から募集した「アンネ・フランクに贈る詞」に応募して2位を獲得したことで、本格的に文学の道へ入ることを志すきっかけとなる。
東京デザイナー学院名古屋校在学中に詩集『白い日々を唄うために』を自主制作する[1]。
専門学校卒業後、名古屋市内の建築デザイン会社に勤務しながら、同人誌「作家」に作品を発表する。
1973年、『蒼い影の痛みを』で女流新人賞を受賞。これを機に上京し、編集プロダクションに勤務しながら作家活動を本格的に始める。
1977年、『太陽はまだあつく燃えていた……』ですばる文学賞候補となり、1980年、「作家」4月号に発表した『みんな月へ……』が「文學界」6月号の同人雑誌評で、評者の久保田正文から「対象」とする作品の一つとして選ばれ、『ホテル・ザンビア』で作品賞[2]を受賞。
1987年、「群像」8月号に発表した『眠る船』で大手出版社発行の文芸雑誌デビューを果たし、1990年、『琥珀の町』で第104回(1990年下半期) 芥川龍之介賞候補となり、1992年、女優・作家の鈴木いづみとサックス奏者の阿部薫を描いた実名小説『エンドレス・ワルツ』で女流文学賞を受賞。これらと同時期(1980年代後半 - 1990年代初頭)には変名として倉田悠子の名義も用い、アダルトアニメ『くりいむレモン』シリーズやその派生作品であるテレビアニメ『レモンエンジェル』のノベライズや脚本、オリジナルのファンタジー小説を執筆していた[3][4]。
1995年、『声の娼婦』で平林たい子文学賞(小説部門)を受賞、『繭は緑』で泉鏡花文学賞候補となる。この頃から三重県志摩半島の小さな湾で見たキジの美しさに魅せられ、土地を購入して別荘を建て、定期的にこの別荘で過ごすことが多くなる。
1997年、『朝が二度くる』で川端康成文学賞候補となり、2000年は『七千日』、2005年は『私がそこに還るまで』と三度も川端賞の候補となった。また、2002年には詩集『母音の川』で萩原朔太郎賞候補となった。
2008年、志摩半島での生活を題材とした『海松』で川端康成文学賞を受賞、四度目の候補での受賞となった。2010年、『海松』で芸術選奨文部科学大臣賞(文学部門)を受賞。愛知淑徳大学大学院文化創造研究科非常勤講師に就任。織田作之助賞の選考委員に就任(2013年まで)。2011年、『半島へ』で谷崎潤一郎賞を受賞、中日文化賞を受賞。日本大学芸術学部非常勤講師に就任。芸術選奨文部科学大臣賞および芸術選奨文部科学大臣新人賞(文学部門)の選考委員に就任(2013年まで)。2012年、『半島へ』で親鸞賞を受賞。日本大学芸術学部教授に就任。
2014年4月29日、紫綬褒章を受章。
2014年8月30日、膵臓癌のため、東京都品川区のNTT東日本関東病院で死去[5]。64歳没。
没後の2015年に『連作・志摩 ひかりへの旅』で高見順賞および三好達治賞候補となった。
2020年から2021年にかけて、倉田悠子名義作品の一部が星海社から復刊された[6]。
復刊はこの5冊で完結となっている[6]。