立山本峰 | |
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ミドリガ池から望む立山 | |
標高 | 3,015[1] m |
所在地 | 富山県中新川郡立山町芦峅寺 |
位置 | 北緯36度34分33秒 東経137度37分11秒 / 北緯36.57583度 東経137.61972度[1] |
山系 | 飛騨山脈(立山連峰) |
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プロジェクト 山 |
立山(たてやま)は、富山県の飛騨山脈(北アルプス)北部にある山。中部山岳国立公園に属する。雄山(おやま、標高3,003 m)、大汝山(おおなんじやま、3,015 m)、富士ノ折立(ふじのおりたて、2,999 m)の三つの峰からなる。富山県の最高峰であり、日本海に面する道府県の最高峰である。また、日本の3,000 m級の山としては最北端に位置する。
日本三名山、日本三霊山(三大霊場、三大霊地)、日本四名山、日本百名山[図 1]、新日本百名山[図 2]および花の百名山[図 3]に選定され、富山県のシンボルの一つとされている。
広義の立山は、一つの山脈が造山過程で東西に分かれ、立山連峰と後立山連峰と称す複列連峰である。
かつて山体は立山カルデラにあり、元の立山火山の山頂部は侵食で喪失している。弥陀ヶ原と五色ヶ原はこの火山の火砕流堆積物や溶岩の台地である。ミクリガ池、ミドリガ池は火口湖であり、現在[いつ?]の立山火山の主な火山活動は地獄谷周辺の火山性ガスの噴出と温泉噴出である。造山運動により形成された褶曲山脈であり、黒部川を挟んで後立山連峰と対峙している。
立山を源流とする主な河川は以下の通り。いずれも富山湾へ流れる。
雄山山頂にある雄山神社峰本社神殿右端の前には、測量の基準である大きな黒御影石の標石(標高点3,003 m)があり[図 4]、その約70 m南南西に一等三角点(標高2,991.59 m、点名「立山」)の標石が設置されている[2]。雄山は、一等三角点百名山に選定されている[3]。
冬季はシベリアから吹く寒風によって日本海で発生した水蒸気が運ばれ、立山の3,000 m級の山々にぶつかることで大量の降雪をもたらす。世界有数の豪雪地帯であり、積雪は15 m以上、最低気温は氷点下20℃以下になる。
室堂周辺から上部は、森林限界のハイマツ帯で、多くのライチョウが生息している。花の百名山に選定されていて、室堂周辺などでは雪解けと共に多くの高山植物の開花が見られる。タテヤマリンドウ、タテヤマウツボグサ、タテヤマアザミ、タテヤマキンバイ、タテヤマオウギなどのタテヤマの名称が付く高山植物があるが、立山の固有種というわけではない。
ライチョウ | ハイマツ | タテヤマリンドウ(青色・白色) | チングルマ | クルマユリ |
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登山者や観光客の増加により室堂周辺は外来植物や病原菌の侵入など、生態系の破壊が危惧され、全国的にも早い段階でマイカー規制が敷かれるようになった。
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立山は、縄文の太古から自然崇拝の山として、また、奈良・平安時代以降は山岳信仰(立山信仰[富 2])による立山修験が現れて、日本三霊山の一つとされている。
立山について「万葉集」には「多知夜麻」と記された[9]。国文学的表現として立山は「植うる剣」とされ、「荒城の月」の歌詞にある「ううる剣」のモチーフの基でもある。
越中の守として遣わされた国司大伴家持(天平18年〈746年〉- 天平勝宝3年〈751年〉以前在任)は、天平19年(747年)「皇神(すめかみ)の 頷(うしは)きいます 新川の その多知夜麻(たちやま)に〜」(国神の領有される新川のその立山に)と立山の霊性を詠んだ[10]。「万葉集」に歌われた立山は、遥かに敬い拝む神山であり天皇も知るところであった。「立山賦」および「敬和立山賦」に片貝川が詠われたのは有力な拠点があったとうかがえる。現代まで片貝川の小石を持参して頂上に供える習俗は続いており、保の伏山や有頼柳[11]などを伝え、大伴氏から別れた佐伯氏が片貝川、布施川の辺りに蕃衍(はんえん)している。山麓には信仰にかかわる立山の神霊を祀ったとみられ、この奈良時代(710年 - 794年)ごろは、古来の地主神とされる刀尾(たちお)天神を敬っていたと見られる。
一方、8世紀ごろに役小角を開祖とする修験道の広まりに加え、これを追いかけて9世紀初頭に空海・最澄らが密教(真言宗・天台宗)を日本に伝える。山中での修験の広まりと密教が結びつき、立山には、吉野・熊野三山、および、高野山金剛峯寺、比叡山寺門派などの修験修行僧が入ったと考えらる。開山の記に、大日岳・剣岳の両山頂付近では、奈良後期から平安初期の錫杖が見つかっている。秘峰であった立山は、9世紀中ごろに律令国家的な開山がなされ、併せて寺院などの建立が進んだことがうかがえる。
京の東方立山では、大日、および、不動明王、薬師浄土など真言密教系の修験に取り囲まれる一方で、円密一致をなす天台密教の修験の場である。中心には西方を司る阿弥陀が坐す。
最澄が修めることができなかった真言密教は、円仁から円珍と渡り補完された。佐伯一門で空海の甥の円珍は、役小角の後を慕い承和12年(845年)大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し修験道の発展に寄与し、承和13年(846年)延暦寺の学頭となって、仁寿3年(853年)唐に渡った。天台山に学ぶのみならず、青龍寺の法全から、伯父の空海と同じく密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)に帰国し、翌貞観元年(859年)に園城寺に入り、清和天皇より園城寺を賜わってこれを顕教、密教に加えて修験道を兼学する伝法灌頂の道場とし、唐から請来した経典や法具を園城寺唐院に収蔵した。円珍は、最澄が志した真言密教を修めた天台法華円宗の円密一致を補完した。
この円珍の弟子、康済(こうぜい、828年 - 899年)は、比叡山にて承和14年(847年)に受戒し、円珍が天安2年(858年)に唐から帰国したのち、円珍から伝法灌頂を授けられた律師(法橋)となる。康済は、「越中立山建立」と師資相承(ししそうじょう)しており、のちに天台座主第8世・園城寺長吏第4世(別当大師)に至る。高野山、比叡山と同規模以上の一大宗教山として立山(りゅうさん)信仰と共に施設や登山ルートなど形の整えは、在地の佐伯一門が中心に、また、叡山僧では師の円珍から相承けた康済に渡って行われたと見られる。立山の説話では、立山山麓に芦峅寺、岩峅寺(いわくらじ)、太田寺(おおたじ)、日中寺(にっちゅうじ)または森尻(もりじり)など広範囲に広がる六寺の宗教村落跡が伝わるものの、現在は天台の仏寺は残らず、芦峅、岩峅の両拠点の雄山神社のほかに、日中に日置神社が、森尻に神度神社が残ってわずかに往時を偲ばせている。雄山神社には、雄山の立山本峰に峰本社があり、山麓芦峅寺の中宮(祈願殿)、岩峅寺の麓大宮(前立社壇)とともに、三位一体の形を有し健在である。峰本社を見上げる室堂平には参籠の場として建てられた室堂が復元されている[図 8]。このほかに、刀尾神社が点在しており、また、真言密教の仏寺に刀尾寺や不動明王を祭る日石寺などがわずかに現存している。
康済が律師となったころ、「雄山神」は、清和天皇から貞観5年(863年)9月条、初めて官位を授かり、三代実録「25日甲寅、越中国正五位下雄山神に正五位上を授く」とあり、その功績から律令国家の下におかれている。国司同様それ以上に遇される雄山神社の創建がうかがえ、この時までには開山していたと見られる。また、「雄山神」の功績から、宇多天皇寛平元年(889々)8月条、日本紀略「正五位上雄山神を従四位下に叙す」と昇進している。
国司の政務は、在地の佐伯一門の影響があったと想起され、何らか「雄山神」および「比叡山(寺門派)」ともおのおの強く関りあったと見られる。国司は8世紀の家持と池主のほか佐伯御形、佐伯鷹守、9世紀の大伴黒成、佐伯河雄などが続く。かつて魚津に蕃衍した在地の佐伯一門は、御形、鷹守の頃より拠点を移動して、森尻や日中を経て、開山の前には芦峅、岩峅の両拠点に移っていたと見られる。
開山縁起では、大宝律令施行の大宝元年(701年)に遡って、これら開山を大きく比喩した説話に替えられている。剣山刀尾天神(白鷹の剣岳)を目指して立山に入るも、不意に現れた阿弥陀仏(熊の雄山)に白羽の矢を立て感得して立山建立し、また、慈興律師らの寺院普及などを、国司の有若または子の有頼の功績として説話に祭ったと見られる。説話の基には、熊野三山、および、高野山金剛峰寺などの開山縁起に見られる修験説話形式を踏まえて、かつ、康済と在地の佐伯一門を天台上人系の通字の「慈」(この頃10世紀を例え、中興の祖、良源の諡号は慈恵のように)を名に当てはめて、慈朝と慈興などと准えたと見られる。
立山の中心となる神は、古来は「刀尾(たちお)神」が周知され剱岳などに坐すと考えられたが、それまで秘境であった立山において姿すら未知の秘峰、立山本峰(ほんみね)に坐す「雄山神」が、天台の立山開山に伴って周知されると信仰が改まったと見られる。「雄山神」は、日本神話の説話(『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)など)による天地開闢と黄泉の国、伊邪那岐命の黄泉帰りと神産みの禊などに根ざし、末法思想が広がる平安後期11世紀までには阿弥陀信仰と強く結びつき、立山地獄説話と共に西方極楽浄土の神山として立山権現が定着した。また、剣岳に刀尾(たちお)権現(本地、不動明王)として手力男命(たぢからおのみこと)を迎えて祭ったと見られる。
雄山神社の祭神は、主神に伊邪那岐命・阿弥陀如来、副神に手力雄命・不動明王が祭られ、本地垂迹による神仏混淆がみられ、岩峅寺の雄山神社の境内摂社にも刀尾(たちお)神社が祀られている。また『和漢三才図会』(1712年)巻六八に、立山(りゅうさん)・刀尾(とおび)両権現の祭神として伊邪那岐命、手力男命があがっている。なお平安以降、立山権現には現在[いつ?]と異なる姿がある。
芦峅寺泉蔵坊本『立山大縁起』には「立山禅定ノ濫觴トハ神祇五代ノ開基、伊弉冉・伊弉諾命ノ霊廟ニシテ則チ陰陽交愛ノ根元、衆生流出ノ本土也」とあり、国初の男女両神のみたま屋であって男女交愛の根元の山としている。元禄9年(1696年)、橘三喜は立山に登拝し絶頂の社図を描いており、祠を三間に仕切り、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)・瓊瓊杵(ににぎ)三尊を祀ったかたちである(『諸国一宮巡詣記』)。
明和7年(1770年)、京都の公卿町尻兼久が従臣を遣して岩峅寺の立山権現に参詣させた時、岩峅寺の社僧は立山は国初の男女両神を祀ると明言している(『岩峅寺文書』)。
岩峅寺の『立山略縁起』の一つにも「立山大権現は伊弉諾・伊弉冉の霊躰、一切男女の元神」と記されている(『越中国立山禅定名所附図』石川県金沢市立図書館蔵)。
「伊呂波字類抄」(平安末期という)の「立山大菩薩顕給本縁起」によると、越中守・佐伯有若宿禰が、仲春上旬の頃、鷹狩りのために山に入ったところ鷹が逃げてしまった。それを見つけに山中に入っていくと熊が現れ襲ってきたので、矢を射かけた。熊は、矢を受けたまま山中に逃げていった。それを追っていくと、その熊とみえたのは金色の阿弥陀如来で、その身には有若が射た矢が刺さっていた。これを見た有若は菩提心を発し、弓を折り髪を切って沙弥となり、慈興と名乗ったという[12]。
「類聚既験抄」(鎌倉末期という)では、「越中国立山権現 文武天皇御宇・大宝元年(701年)始めて建立された。相伝に云う立山にいた狩人が、熊を矢で射て追いかけたところ、その熊は矢を受けて立ったまま死んでいた。しかし、その屍体を見ると、熊ではなく金色の阿弥陀如来であった、乃ち此を立山権現と云う」と記されている[12]。
「和漢三才図会」巻六八(1712年・江戸中期)では、「立山権現 文武天皇・大宝元年(701年)、天皇は阿弥陀如来からの夢告により、佐伯宿禰有若を越中国国司に任じた。ある日、有若の子・有頼が、父が愛育していた白鷹を借りて鷹狩りをしたところ、鷹が逃げてしまった。鷹を行方を探している有頼の前に、右手に剣をさげ左手に数珠を持った翁(刀尾天神・たちおてんじん)があらわれ、「鷹は横江の森にいる」と教えて消えていった。なおも深山に入っていくと大熊が現れ襲いかかってきたので、有頼は弓に矢をつがえて熊の胸を射貫いた。熊は血を流しながら玉殿の岩屋のなかにに逃げ込んだので、有頼も続いて岩屋に駆け込んでみると、熊はおらず三尊が並び立っておられ、しかも阿弥陀如来像の胸には自分が射放った矢が突き立ち血が流れていた。驚いた有頼がその場に伏せていたら、阿弥陀如来があらわれ、『私は濁世の衆生を救おうとして、この山に十界を現して(地獄極楽をすっかりそろえて)、お前の来るのを待っていた。有若を国司にしたのもそのためである。鷹は剣山の刀尾天神で、熊は私である。お前は早く出家して此の山を開け』と告げた。これを聞いた有頼は感泣して山を下り、五智山の慈朝について仏門に入り、慈興と名乗って立山を開き、立山大権現の大宮などを建てた」と記されている[12]。
有頼が、山に入って草をかみ元気を回復した坂を草生(くさおい)坂、妖気迫り、抜刀して切払った坂を断截(だんさい)坂、称名念仏の声に励まされてやすやすと登った坂を刈安(かりやす)坂といい、念仏の声は滝の音だったので、その滝を称名(しようみよう)滝といい、滝を伏拝んだ地を伏拝(ふしおがみ)というなどの地名説話がある。立山は山頂付近に地獄(古い日本語で温泉の意味)がある山としても知られていた。
立山三山をめぐる立山登拝は、須弥山の天界[富 3]思想に到達するもので、地獄と浄土による生死観の対比、および、立山本峰に至って雄山の山頂(雄山神社峰本社)から北辰に重ねて大汝を拝むこと、これ即ち宇宙に己(大汝)を写して己を悟るものと考えられ、古来修験より信仰が広がっている。また、大日岳や雄山から剱岳(俱利伽羅不動明王)を拝むことも同様である。信仰上、大汝山や剱岳は拝む山であり自らが登る山ではない。
立山登拝の際に、河原で石を携えて雄山の山頂に石を供える習わしがある。天界[富 3]浄土となる立山本峰は、富山城下から見ると、立山の大日岳による死角に隠れされている。登拝は、麓の岩峅寺に所在する雄山神社(旧称は立山権現・雄山権現)、「神様の降り立つ場所」の意味を含む芦峅寺の麓大宮(前立社壇)にて、立山に入山する者の身の穢れや罪を祓い、道中無事の祈願から始まる。雄山の山頂には、雄山神社本宮(峰本社)があり、霊山信仰を導いている。
古くから修験者が登山した山が、現代では立山黒部アルペンルートが開通し、高尾山や富士山に次ぎ、国内外から年間100万人に迫る観光客が訪れる山岳観光地である[13]。また立山連峰(剱岳、雄山、富士ノ折立)には、日本では数少ない氷河が現存する[報 1][報 4]。
立山アルペンルートが春に除雪され開通すると、室堂ターミナル付近の道路は両側が10-20 mの高さの雪の壁となり、「雪の大谷」と呼ばれている。
室堂の北側には、みくりが池の湖畔を通り地獄谷へ向かう遊歩道がある。地獄谷の北西にはほとんど草木が生えることができないエンマ山と呼ばれる硫黄を含んだ丘がある。地獄谷では、噴煙、火山ガスおよび温泉の源泉があり、有毒ガスの濃度によって遊歩道が通行禁止となる場合がある。この源泉が、周辺の宿泊施設で温泉施設に利用されている。
この節の加筆が望まれています。 |
立山と弥陀ヶ原周辺は、3,000 m級の山々とはいえ古くから多くの人の参拝が可能であった。それに対して、剱岳を初めとする山々は近代になってようやく登山の対象となった。
江戸時代から旧越中国の多くの村では、男子は15歳または16歳になると成人儀礼として集団で立山(雄山神社)を登拝する風習があり、この立山詣りで一人前と認められた[図 9]。明治以来、富山県内の小学校で、学校行事として立山で学校登山が行われてきた。富山県教育委員会によれば、富山県内で立山登山を行っている小中学校は60 - 70校で推移[報 5]していたが、2020年代に新型コロナウイルス感染症の拡大や教員を含む働き方改革の影響で立山登山を行う小学校が激減。2020年度には7校、2021年度には28校となった[14]。
1964年(昭和39年)6月20日に高原バス全線(美女平 - 室堂)が営業を開始すると、標高2,450 mの室堂までバスで行くことができ、立山登山も手軽に行えるようになった。
また富山県教育委員会の主催で、富山県下から小学6年生を募集し「12歳立山夢登山」も行われた。しかし2003年(平成15年)7月、小学生が転落し収容先の病院で死亡が確認された事故の発生以後、学校からの登山の計画や届出での規則が強化され、小学校登山の安全対策として立山自然保護センターで登山用ヘルメットの貸出を開始した[15]。
立山黒部アルペンルートの交通機関を利用し、室堂を立山や剱岳などの登山口とする場合が多い[図 13]。立山室堂山荘と一ノ越を経由して、雄山神社まで往復するルートが最もよく利用されている[要出典]。冬期は交通機関が途絶えるため、一般の登山は困難となる。春に立山黒部アルペンルートが開通すると、室堂周辺などで春山スキーが行われている[図 4]。
室堂周辺や立山周辺の登山道上に、ホテルや山小屋などの多くの宿泊施設がある[図 14]。大汝山および雄山への最寄りの山小屋は一ノ越山荘である。全ての山小屋は予約制となっている。
名称 | 所在地 | 大汝山からの 方角と距離 (km) |
標高 (m) |
収容 人数 |
備考 |
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国民宿舎天望立山荘 | 弥陀ヶ原 日本最高所の国民宿舎 |
1,940 | 89 | 富山県の学校登山が宿泊 | |
剱御前小屋 | 別山乗越、剱御前と別山との鞍部 | 北 2.4 | 2,410 | 200 | 剱岳の展望 |
ロッジ立山連峰 | 雷鳥平 | 北西 2.4 | 2,330 | 200 | |
雷鳥沢ヒュッテ | 北西 2.3 | 2,350 | 290 | 東隣にテント250張のキャンプ場あり | |
ホテル立山 | 室堂バスターミナル | 西 2.2 | 2,420 | 289 | 期間限定で立山山頂簡易郵便局が開設される |
みくりが池温泉 | みくりが池湖畔 | 北西 2.2 | 2,410 | 120 | |
雷鳥荘 | リンドウ池北 | 北西 2.1 | 2,400 | 350 | |
立山室堂山荘 | 室堂平 | 西 1.7 | 2,450 | 200 | |
内蔵助山荘 | 真砂岳山頂の東側直下 | 北 1.4 | 2,790 | 120 | |
一ノ越山荘 | 一ノ越、雄山と龍王山との鞍部 | 南西 0.9 | 2,705 | 200 | 立山に最も近い山小屋 |
大日岳と室堂 | 大汝山と剱岳 | 富山平野 | 黒部湖と後立山連峰 |