竹の子族(たけのこぞく)は、野外で独特の派手な衣装でディスコサウンドに合わせて「ステップダンス」を踊るという風俗またはその参加者の総称。
1980年代前半東京都・原宿の代々木公園横に設けられた歩行者天国で、ラジカセを囲み路上で踊っていた。ブーム最盛期は1980年(昭和55年)で[1][2][3]、この頃には名古屋市など地方都市の公園や、東京では吉祥寺や池袋でも小規模ながら竹の子族が踊っていたという。
「竹の子族」の由来は諸説あるが、自作以外の衣装を1978年(昭和53年)に開業した「ブティック竹の子」で購入していたことが「竹の子族」の由来の一つと言われている[2]。街頭や路上で若者グループが音楽に合わせてパフォーマンスを表現するブームの先駆けともいえる。
新宿の殆どのディスコが竹の子禁止にして追い出された為にホコ天に流れた(大人数で輪になってフロアを占拠し他の人が踊れない為)。
グループは主に首都圏の中学・高校生で構成され、歩行者天国が開催される休祭日に原宿歩行者天国(ホコ天)に集合し、ホコ天終了時まで踊っていた。また、ホコ天が開催されなかった場合は、代々木公園内や公園入口、NHK放送センター近くの渋谷方面へ向かう歩道橋近辺であった。
「竹の子族」の若者たちで原宿歩行者天国は溢れ返り、そのブーム最盛期にはメンバーが2,000名以上いたと言われている。聴衆の多さから移動もままならなくなったことも多かった[1]。ラジカセから流す曲はディスコサウンドが中心であった(「アラベスク」「ヴィレッジ・ピープル」「ジンギスカン」等の80年代キャンディーポップス)[2]。
竹の子族の衣装は、そのチームごとに特色のある衣装をデザインし制作していた。これらは主に原色と大きな柄物の生地を多用したファッションで、『アラビアンナイト』の世界のような奇想天外なシルエットが注目を集め[2]、化粧についても男女問わず多くの注目を引こうと鮮やかなメイクをしていた。竹の子族の生みの親として広く知られるようになった大竹竹則がオーナーを務める「ブティック竹の子」では、竹の子族ブーム全盛期の1980年(昭和55年)、竹の子族向けの衣装が年間10万着も販売されたという[3]「ローラー族」が1950年代のアメリカをモチーフにしていたのとは対照的に、竹の子族のファッションは東洋回帰を思わせるものがある[2]。
若者集団の文化、ファッションとしても、1980年代前半で注目されるキーワードの一つである。清水宏次朗や沖田浩之も、街頭でスカウトされ芸能界にデビューした元竹の子族である。
それぞれの振り付けはチーム毎によって異なる場合が多い。
1970年代後半、東京・新宿のディスコで流行ったステップダンスが始まりと言われている。
女性タレント・古橋舞悠の実父・古橋祐二(実業家・バイク店経営者)が実際に「竹の子族」に関わり、発足するまでの秘話をテレビ出演[4]した際に明かしている[5]。古橋によれば、
1980年代初め頃の、毎週日曜日の原宿・代々木公園横の歩行者天国には、竹の子族のチーム約50グループ、メンバーがおよそ2000人に膨れあがっていた。 初期メンバーは30人前後であり、1年間で100倍近くに膨れ上がったことになる。 当の竹の子族以上に、ギャラリーの数も想像を超えるほど急増していた。毎週日曜日になるとおよそ10万人近くが「原宿ホコ天」に集まり、原宿歩行者天国は端から端まで身動きがとれなくなることも多々あった。
1980年代後半、ローラー族や、バンド、ブレイクダンス等、多様なパフォーマンス集団に押され、竹の子族ブームは下火になっていった。
1996年から1997年にかけての代々木公園前歩行者天国の試験廃止および1998年8月31日の歩行者天国完全廃止と共に原宿から撤退、東京・新宿のディスコに活動の場を移す。
2010年代でも、最盛期を知らない若者が、「ブティック竹の子」やメディアなどで竹の子族を知り、似たファッションや活動を楽しんでいる。竹の漢字を片仮名2文字に分解した「ケケノコ」族と自称・他称されることもある[6]。
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