竹下 勇(たけした いさむ、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1949年(昭和24年)7月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。
- 本名は竹下勇次郎。しかし任官当時、格下の竹下勇四郎機関士なる人物がいたことから、憤慨して改名してしまった。
- 日露戦争の前後にアメリカ大使館付武官として長らく対米研究を重ねている。柔道を通じてセオドア・ルーズベルトと親しくなり、アポなしでホワイトハウスを訪問しても咎められないほど深い仲になっている。帰国後は訪日したルーズベルト家を招いて饗応している。但し、あくまでもセオドアとの個人的な友情であり、太平洋戦争末期にフランクリン・ルーズベルトが急逝すると、日記に「天罰が下った」と書き残している。
- 日露戦争中は潜水艦の購入を画策したり、中立国経由で伝わるロシア情報の分析に腐心したりした。ロシア情報の分析では、ポーツマス会議に出席するウィッテ全権の人となりを詳細に分析し、外務省に伝達している。しかし、「対日非戦派として冷遇されていたので、会議では譲歩してくるだろう」という甘い予測は完全にはずれた。なお竹下はポーツマス会議の随員である。
- 中国政策では積極干渉をモットーとし、これに対してアメリカがどのように妨害してくるかを生涯にわたって分析し続けた。石井・ランシング協定の仲介者であり、福建省進出やスプラトリー諸島領有化などの対中積極政策の推進者である。一方で、イギリスの対日感情に配慮し、自らは第一特務艦隊を率いてインド洋の通商保護に赴いている。
- 海軍を引退した晩年はドイツとの連携を深め、ボーイスカウトを率いてヒトラーユーゲントを出迎えている。これは急に親米熱が冷めたのではなく、アメリカの対日政策が敵対化した以上、従来の融和路線から対抗路線に転換せざるを得なくなったと判断したためである。竹下はアメリカと対立するなら、ヨーロッパの有力な勢力との協力が必要であると日ごろから説いており、その候補としてイギリス・フランスとともにドイツを挙げていた。イギリス・フランスとも亀裂を生じたため、たまたま増長するドイツを相手に選んだだけであり、積極的なナチ信奉者ではない。
- 原宿竹下通りは竹下邸があったことに由来するという説がある。
- 妻は男爵鮫島具重の養姉、三浦謹之助、石塚英蔵、前田青莎の各長男は女婿[1]。
- 生麦事件の薩摩側当事者のひとり久木村治休は叔父にあたり、愛甥竹下を久木村はことのほか可愛がったという。
- 攻玉社幼年学校出身。
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
黒沢文貴・斎藤聖二・櫻井良樹・波多野勝編『海軍の外交官竹下勇日記』芙蓉書房、1998年。
- ^ 『大衆人事録 東京篇』(第13版、1939年)「竹下勇」
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「正規海軍将校並びに海軍特別志願予備将校 昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」82頁。
- ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」1891年12月15日。
- ^ 『官報』第3453号「叙任及辞令」1895年1月4日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第4902号「叙任及辞令」1899年11月1日。
- ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
- ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
- ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
- ^ 『官報』第1466号「叙任及辞令」1917年6月21日。
- ^ 『官報』第2974号「叙任及辞令」1922年7月1日。
- ^ 『官報』第3624号「叙任及辞令」1924年9月19日。
- ^ 『官報』第290号「叙任及辞令」1927年12月15日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
- ^ 『官報』第1190号「叙任及辞令」1916年7月19日。
- ^ 『官報』第1674号「叙任及辞令」1918年3月5日。
- ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
- ^ 『官報』第8086号「叙任及辞令」1910年6月7日。
- ^ a b c d e 『官報』第3258号「叙任及辞令」1923年6月11日。
- ^ 『官報』第3127号「叙任及辞令」1937年6月8日。