竹山 道雄 (たけやま みちお) | |
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日本英語教育協会『The Youth's companion』第15巻第3号(1960)より | |
誕生 |
1903年7月17日 日本・大阪府大阪市 |
死没 |
1984年6月15日(80歳没) 日本・東京都新宿区津久戸町 |
墓地 | 鎌倉霊園 |
職業 | 評論家、文学者、小説家 |
国籍 | 日本 |
ジャンル | 小説、児童文学 |
主題 | 評論、ドイツ文学、翻訳 |
代表作 |
『ビルマの竪琴』(1947年) 『ハイジ』(1952年) |
主な受賞歴 |
毎日出版文化賞(1948年) 菊池寛賞(1983年) |
子供 | 竹山護夫(長男) |
親族 |
岡田良一郎(祖父) 岡田良平(伯父) 一木喜德郎(伯父) 中村與資平(叔父) 平川祐弘(娘婿) 竹山恭二(甥) |
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竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 1984年6月15日)は、日本の評論家、ドイツ文学者、小説家。日本芸術院会員。第一高等学校教授、東京大学教養学部教授などを歴任した。
1903年、銀行員の息子として大阪市に生まれた。幼少期は父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現在のソウル)で過ごした。東京府立第四中学校から第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科に入学。1926年に同大学を卒業した。
卒業後はドイツ語講師として第一高等学校に勤務。1928年から文部省より欧州留学を命じられ、ベルリンとパリに留学。1931年に帰国し、第一高等学校の教授となった。
戦後、第一高等学校が学制改革によって新制東京大学教養学部に改組されることとなり、改組後間もない1951年に東京大学教授を退官。上智大学など諸大学での講師を務めつつ、ヨーロッパ各地やソ連を度々訪問した。創作活動の面では〈生成会〉同人として、機関誌『心』(月刊誌、1948-81年)に大きく参与した。月刊誌では『新潮』、『自由』にも多く寄稿した。晩年の1983年に日本芸術院会員になった。
戦前のナチズム・軍国主義と戦後の左翼的風潮には同質性(専制と狂信)があるとして嫌悪し、自由主義者としての立場を堅持した[1]。
1984年6月15日、肝硬変のため東京厚生年金病院[2]で死去[3]。没後、叙正四位、勲三等瑞宝章を追贈された。
多く重版した訳書にニーチェ『ツァラトゥストラ』やヨハンナ・シュピリ『ハイジ』など[4]、シュヴァイツァーの著書『わが生活と思想より』を訳し、日本におけるシュヴァイツァーの紹介者としても知られている。
小説家としては、一高教官として多くの教え子を学徒出陣で戦場に送り出した体験に基づき、童話雑誌『赤とんぼ』(実業之日本社)に1947年3月から1948年2月にかけて『ビルマの竪琴』を連載。1948年10月に中央公論社で同題の単行本として出版され、同年毎日出版文化賞を受賞、1950年に文部大臣賞を受賞した[5]。1956年と1985年に市川崑監督により映画化されている。
1940年、『独逸・新しき中世?』を発表し、ナチス・ドイツを批判した。戦後直後から1950年代にかけては、当時の日本の社会主義賛美の風潮に抗してスターリニズムへの疑念を表明。中道保守の立場から昭和史論争をはじめ、左右双方の全体主義に警鐘を鳴らし続けた。1962年に「ヨーロッパの旅」ほかの著作で第13回読売文学賞、1983年に第31回菊池寛賞を受賞した。
極東軍事裁判で派遣されていたベルト・レーリンク判事と交遊があった[6]。