第11軍 11-я армия | |
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活動期間 |
1918年10月3日 - 1919年2月13日 1919年3月13日 - 1919年6月12日 1919年8月14日 - 1921年5月29日 |
国籍 | ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 |
軍種 | 赤軍 |
上級部隊 |
南部戦線 カスピ・カフカース戦線 トルキスタン戦線 南東戦線 カフカース戦線 |
主な戦歴 |
ロシア内戦 チフリス作戦 バクー作戦 |
第11軍(だい11ぐん、ロシア語: 11-я армия)は、ロシア内戦中の1918年から1921年にかけて、赤軍に三度形成されていた編制。
1918年9月11日付共和国革命軍事会議指令に基づく同年10月3日の南部戦線革命軍事会議指令により、北カフカース全域の赤軍から形成された。その所属は当初の南部戦線から11月3日には同戦線カスピ・カフカース部門、12月8日から解散までの翌1919年2月13日まではカスピ・カフカース戦線であった[1][2]。
当初、司令官にはイヴァン・ソローキンが任命されていたが、ソローキンは北カフカース革命軍事会議と北カフカース・ソビエト共和国中央執行委員会との間に起った対立に乗じて反乱を起こし、逮捕・処刑された。その後第11軍は第10軍を援護してツァリーツィンで白軍義勇軍と戦い、10月にはスタヴロポリとアルマヴィルまで進んだが、11月にはアントーン・デニーキンの軍に押されてスタヴロポリとネヴィンノムイスクから撤退した。しかし同時に、軍の一部はテレク州で発生した反乱に対抗し、モズドクを占領してウラジカフカス、グロズヌイとキズリャルを包囲している。12月下旬には再度攻勢に出たが、翌1919年1月初めには敵の猛反撃によって軍はスヴャートイ・クレスト=エリスタとグロズヌイ=キズリャルの2か所に分断された[1][3]。戦闘のみならず発疹チフスの蔓延によっても大量の兵員が喪われ、軍はキズリャルを経由してアストラハンへ退却、一部はマヌィチ川を越えて第10軍へ合流した[1][3]。
司令官[1]
参謀長[1]
革命軍事会議メンバー[1]
1919年3月13日の共和国革命軍事会議指令に基づき、指令部直属の「第11独立軍」(11-я отдельная армия) としてカスピ・カフカース戦線から編制され、5月23日から南部戦線の指揮下に入った。しかし6月4日の共和国革命軍事会議指令によって同月12日に解散し、部隊は第10軍に吸収された[1][2]。その範囲はアストラハンとカスピ海沿岸、東部 (ru)・南部戦線の接続地にあった。陸上では北東カフカースとダゲスタンで南ロシア軍と戦ったが、兵力の小ささゆえに作戦は成功しなかった。アストラハン・カスピ小艦隊 (ru) はヴォルガ・デルタ防衛のため白軍艦隊 (ru) やイギリス海軍艦隊と戦った[1][2]。
1919年8月14日の東部戦線革命軍事会議令により、トルキスタン戦線のアストラハン支隊から形成。所属は当初のトルキスタン戦線から10月14日には南東戦線、翌1920年1月16日にはカフカース戦線 (ru) に移り、1921年5月29日に独立カフカース軍 (ru) に再編されることで解散した[1][2]。
1919年8月から12月にかけてはアストラハンで激しい防衛戦を率い、9月から10月にはデニーキン軍と、11月から12月には南東戦線を援護して戦った。第1軍・第4軍と連携してアストラハンやウラルの白軍と戦い、すべての作戦を成功裏に終了させた[1][2]。1920年1月から3月にはスタヴロポリと北カフカース中東部を制圧し (ru)、4月には赤軍のアゼルバイジャン侵攻に際してアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国樹立の主力となった。7月から翌1921年5月にかけてはチフリス、バトゥム、エレヴァンを攻略し、アルメニア社会主義ソビエト共和国およびグルジア社会主義ソビエト共和国の樹立にも貢献した[1][2]。
司令官[1]
革命軍事会議メンバー[1]
参謀長[1]
部隊[1]