開催国 | 日本 |
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開催期間 | 1935年6月1日-6月2日 |
参加チーム数 | 6 |
優勝 | 全京城蹴球団 |
準優勝 | 東京文理科大学 |
試合総数 | 5 |
ゴール数 | 28 (1試合平均 5.6点) |
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この項目では1935年6月1日および2日に開催された全日本蹴球選手権大會(ぜんにほんそうごうしゅうきゅうせんしゅけんたいかい)について記載する。なお、本大会は天皇杯全日本サッカー選手権大会の第15回大会に当たる。
第4回からの全日本選手権は明治神宮大会の開催年には同大会ア式蹴球の部を兼ねて行われてきたが、この年から明治神宮大会とは別に「全日本総合蹴球選手権大会」が始まった[1]。
日本一を決める全国大会がふたつ存在することになったが、この回からは全日本総合選手権の優勝チームが全日本選手権のチャンピオンとされている[1][2]。翌年のベルリンオリンピックに向けた強化策としての試合数増加が大会創設の目的だった[1][3]。FAカップは従来通り明治神宮大会の優勝チームに与えられ、全日本総合選手権の優勝チームには日本蹴球協会(JFA)杯が授与された[4]。
関東予選決勝は東京文理科大学×早稲田大学(1-0)[1]、朝鮮予選決勝は全京城蹴球団×全平壌蹴球団(1-0)[5]。
本大会には各地方予選を勝ち抜いた6チームが参加。試合は全試合が明治神宮外苑競技場で行われた。全日本選手権の歴史で朝鮮から初の参加チームとなった全京城には、金容植(ベルリンオリンピック日本代表)をはじめ、当時の朝鮮を代表する名手が揃っており、準決勝から登場すると2試合で12ゴールを挙げて優勝した。全京城はこの年の10月にあった明治神宮大会にも優勝(記録上表記は京城蹴球団)した。
1回戦 | 準決勝 | 決勝 | ||||||||
1935年6月1日、14:00[注 1] (主審:竹内) |
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東京文理科大学 | 4 | |||||||||
1935年6月2日、10:00 (主審:井出) | ||||||||||
北海道帝国大学 | 2 | |||||||||
東京文理科大学 | 3 | |||||||||
1935年6月1日、15:30 (主審:竹腰) |
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関大クラブ | 0 | |||||||||
関大クラブ | 4 | |||||||||
1935年6月2日、15:30 (主審:浜田) | ||||||||||
仙台サッカークラブ | 2 | |||||||||
東京文理科大学 | 1 | |||||||||
全京城蹴球団 | 6 | |||||||||
1935年6月2日、11:30 (主審:松丸) |
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全京城蹴球団 | 6 | |||||||||
名古屋高商 | 0 | |||||||||
全京城蹴球団[5] | 東京文理大学 | |||
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Pos. | 選手 | Pos. | 選手 | |
GK | 李恵逢 | GK | 中垣内 | |
RF | 朴奎禎 | RF | 阿部 | |
LF | 鄭龍洙 | LF | 三塚 | |
RH | 李裕瀅 | RH | 藤田 | |
CH | 金容植 | CH | 原崎 | |
LH | 金炳禧 | LH | 木村 | |
RWF | 朴孝済 | RWF | 小川 | |
RIF | 裴宗鎬 | RIF | 林 | |
CF | 金成汗 | CF | 松永 | |
LIF | 金景漢[注 2] | LIF | 久下 | |
LWF | 康基淳 | LWF | 竹内 |